今度は宮市がピッチへ戻り、全力でプレーする姿を介して受け取ったエールに応える番となる。地道なリハビリに取り組んできた過程で、実は常に抱いてきたモットーがある。それに行き着いたのはマリノス入りする前、ドイツで右膝前十字靭帯を断裂して手術を受けた2017年6月にさかのぼる。
「そのときに医師から、引退しなければいけないかもしれない、という話を聞かされました。プロ選手としてプレーできる、というのは当たり前じゃないと身を持って体験してから、毎日に感謝できるようなりました。試合に出られなくても、サッカー選手でいられるだけで幸せなんだ、と」
中京大中京高(愛知)でプレーしていた宮市は2011年1月に、Jリーグを介さずにイングランド・プレミアリーグの名門アーセナルへ5年契約で加入。イギリスの就労ビザを取得できなかった当時の規定で、オランダのフェイエノールトなど4つのクラブへ期限付き移籍して武者修行を積んだ。
その間の2012年にはアルベルト・ザッケローニ監督が率いる日本代表へ招集され、同年5月のアゼルバイジャン代表戦では19歳にしてデビューを果たす。しかし、その後の宮市を待っていたのは怪我の連鎖であり、契約を残していたアーセナルから2015年6月に通告された契約解除だった。
新天地となったドイツ2部のザンクトパウリでは加入直後に左膝の、2年後の2017年6月には前述した右膝の前十字靭帯に手術が必要な大怪我を負う。十代の頃の自分を「アーセナルでトップに上り詰めたい、という焦りもありました」と振り返る宮市は、その後の心境の変化をこう語っている。
「いろいろな経験をしたおかげであまり先を見なくなったというか、目の前の一日一日に感謝するマインドになりました。野心を抱きすぎていた10代の頃を振り返れば、メンタルコントロールの部分で自分は気負いすぎると上手くいかない。5年後、10年後にはこうなっていたいとよく考えていましたけど、いまは次のトレーニングや次の試合を、より現実的に考えるようになりました。何よりも大事なのはチームのために何ができるか。試合に出る、出ないに関係なく、チームのために自分ができることに最大限集中する。そうすれば、自ずといろいろな結果がついてくるはずなので」
考え方が変わったと宮市が明かしたのは、約10年ぶりに代表へ復帰した昨年7月。だからこそ、直後に右膝に負った大怪我は、日本サッカー界に関わるすべての人々に大きな衝撃を与えた。
しかし、一度はどん底に突き落とされたはずの宮市は、オフの間に背番号を「17」から「23」に変えて、またもや不死鳥のように蘇った。しかも、たっての希望で変更した背番号には、復活を期す今シーズンが「23」年であること以外にも実は深い意味が込められている。
今シーズンからFC東京へ移籍した、同じ1992年生まれのFW仲川輝人の背番号が「23」だった。リハビリ中の宮市を何度も励ました盟友の思いも引き継ぐ。この優しさもまた宮市の魅力となる。
夏の中断期間に入るまでに、宮市は公式戦ですべて後半途中から9試合に出場。6月10日の柏レイソル戦の後半アディショナルタイムには、決勝点となる劇的な復帰後初ゴールを決めた。
そして、中断期間に行われた国際親善試合。19日のセルティック(スコットランド)戦で後半開始から、復帰後では最長となる45分間にわたってプレーして2ゴールをゲット。6-4の逆転勝利に貢献した宮市は、23日のマンチェスター・シティ(イングランド)戦でも17分間プレーした。
「個人的にコンディションを上げるいい機会になりましたし、何よりもチームとして、再開するリーグ戦へ向けていろいろと試せることがあったのはよかったと思っています」
試合出場を重ねるごとに、長期離脱明けのコンディションが上向いていると実感しているのだろう。宮市はその上で、現時点で託されている役割をまっとうするための課題もあげている。
「後半からプレーする場合には、どの試合でも流れを変える、という役割が求められるので。だからこそ(ゴールに絡む)最後の質という部分をもっと、もっと上げていきたい」
残り13試合となったJ1リーグ戦で、マリノスは首位の神戸に勝ち点1ポイント差の2位につけている。そして、いま現在の宮市が何よりも求めるのは、ピッチの上で勝利に貢献し続けて連覇を成就させ、おこがましさの類を感じることなく優勝シャーレを掲げる光景となるだろう。
そのときには、懸命なリハビリを積み重ねながら乗り越えてきた苦しみを、まったくといっていいほど感じさせない宮市の爽やかな笑顔が、歓喜の涙とともにとびっきりの輝きを放つはずだ。