■「横浜市電保存館」も今年で開館50周年

次の根岸駅へ向かう途中、進行方向左手の車窓後方から別な線路が迫ってくる。神奈川臨海鉄道本牧線(根岸~横浜本牧~本牧埠頭間)という貨物線である。同線の横浜本牧駅発着のコンテナ列車が、休日を除く1日1往復、根岸駅から根岸線に乗り入れて直通運転を行っている。

  • 横浜本牧駅構内を行く神奈川臨海鉄道のコンテナ列車

根岸駅のホームに降り立つと、まず目に入るのがおびただしい数の石油タンク車だ。根岸の製油所で精製された石油製品が、ここから根岸線や高島貨物線等を経由し、竜王・八王子・坂城・倉賀野・宇都宮など各地へと運ばれていく。

改札を出てすぐ右側、タクシーのりばの植込みのところに、根岸湾の埋立事業に関する記念碑が建っている。刻まれているのは根岸線とも関連深い内容である。

  • 根岸駅前の根岸湾埋立「記念碑」

もともと根岸線は戦前期に建設が計画されたが、日中戦争・太平洋戦争の勃発により中止を余儀なくされた。戦後になり、横浜市が戦災復興から発展への活路のひとつとして根岸湾の埋立て・臨海工業地帯の造成を計画。根岸線は臨海工業地帯における輸送動脈としての役割を期待され、建設された。

記念碑に刻まれている内容は、その過程で起きた、根岸湾を漁場としていた漁業関係者による大規模な埋立反対運動についてである。困難を極めた市との交渉の末、漁業関係者がどのような思いで埋立事業に同意したのか、ぜひご覧になってほしい。

根岸駅に関連して、お知らせすべきことがもうひとつある。根岸駅前からバスで約8分の「横浜市電保存館」が、今年8月25日に開館50周年を迎えるのだ。同館では、記念事業として、市電シミュレーター特別仕様登場(6月末まで)、50周年記念写真展第1弾「横浜市電保存館今昔写真展」開催(9月末まで)、鉄道ジオラマコーナーリニューアル(7月完成予定)、50周年記念講座(詳細は今後発表)などを行うという。

  • 横浜市電保存館館内(2021年8月撮影)

  • 根岸駅付近で海に注ぐ堀割川を渡る根岸線の電車(1978年7月。横浜市史資料室)

根岸駅を発車し、掘割川を渡ると、次の磯子駅に到着する。磯子駅は第1期線開業時の終点駅である。いまも磯子行の本数が多いので、都内や埼玉県に住む沿線の人々にとっても知名度が高い駅なのではないだろうか。なお、徒歩だとやや距離があるものの、磯子駅の北西に位置する久良岐公園(港南区上大岡東)にも横浜市電の車両が1両保存されている。

■新杉田駅と京急線杉田駅が離れている理由

新杉田駅はシーサイドラインおよび京急線との乗換駅である。シーサイドラインは駅構内で直結しているので乗換えは楽だが、京急線の杉田駅までは距離が500mあり、改札間の所要時間が徒歩で約9分もかかる。「新すぎた駅」というよりも「遠すぎた駅」という感じなのである。京急線の杉田駅は戦前から存在していたのだが、新杉田駅はなぜこのように離れた立地になったのだろうか。

新杉田駅建設地選定の経緯については、国鉄から根岸線建設工事を引き継いだ日本鉄道建設公団がまとめた『根岸線工事記録(昭和49年3月)』に記されているので、一部抜粋する。

「同線(筆者注 : 京急線)杉田駅を総合駅として根岸線と接続することは交通政策上理想的であるが、駅周辺が商店住宅の密集地帯であり道路も狭く横浜市としては都市改造法によって駅前の整備を図るより方法がない状況であった。昭和40年3月市は杉田地区住民に対して総合駅設置のアンケートをとったところ、地元商店街から反対がでて杉田総合駅は見送られた」

乗換えは不便になったものの、怪我の功名というべきか、両駅を結ぶ杉田商店街はいまも人通りが多く、活気がある。杉田総合駅ができていたならば、より多くの大型商業施設が誘致され、地元商店街は寂れていたかもしれない。

  • 新杉田駅と杉田駅の間に立地する杉田商店街は、いまも活気がある

根岸線の旅もいよいよラストスパートに入る。ここから先は3駅連続で「台」の付く駅名が現れる。洋光台駅、港南台駅、本郷台駅である。

最初の洋光台駅は、第2期線完工時の終点駅だった。なぜ、洋光台というやや中途半端に思われる場所までの開業が急がれたのかといえば、当時、日本住宅公団が200万平方メートルにも及ぶ住宅地造成事業(横浜国際港都洋光台土地区画整理事業)を施工中で、その完成が1969(昭和44)年度に予定されており、早期延伸が強く要望されたためだ。ちなみに、磯子~洋光台間の開業を目前に控えた1970(昭和45)年2月12・13日の2日間、蒸気機関車D51形2両が、開業前の「地固め」のために同区間で運転されたことは、特筆すべきであろう。

  • 根岸線磯子駅~洋光台駅間開通式。磯子駅ホームにて(1970年3月17日。横浜市史資料室)

  • 根岸線磯子駅~洋光台駅間開通式。洋光台駅前広場にて(1970年3月17日。横浜市史資料室)

  • ほぼ同アングルから撮影した現在の洋光台駅前広場。駅舎も周囲の集合住宅も様子がほぼ変わっていない

  • 港南台駅は当初、設置予定がなかった(1978年7月。横浜市史資料室)

次の港南台駅は、当初は設置予定のない駅だった。当時、洋光台と同様、港南台においても住宅公団による住宅地造成事業が進められており、根岸線建設ルートを調整する過程で住宅公団から鉄道建設公団に駅設置の申入れがあり、駅工事費の折半負担などの合意の上、駅設置が取り決められた。

最後の本郷台駅は、米軍から返還された旧日本海軍大船燃料廠(しょう)跡に建設された。同駅周辺で見るべきものとして、地名に関する「本郷の由来」という石碑が駅前広場に設置されている。横浜市に編入される前のこの地域が鎌倉郡本郷村だったことや、本郷という地名は鎌倉時代の文書に見られるといったことなどが記されている。本郷台の駅名は、この元々の地名に、洋光台・港南台に連なる台地ということで「台」を付けて命名された。

  • 本郷台駅前に建つ「本郷の由来」の碑

さて、根岸線が大船駅までの全線開通を果たしたのは1973(昭和48)年4月9日である。その少し前の1971(昭和46)年7月には、湘南モノレール(大船~湘南江の島間)が全通を果たすなど、大船が交通の要衝として目覚ましい発展を遂げた時期だった。惜しまれるのはドリームランドモノレール(ドリーム交通)の失敗である。これについては、2021年4月11日付の本誌記事「開業後1年半で運行休止、ドリームランドモノレールの廃線跡を探索」でも紹介した。ドリームランドモノレールの営業が上手くいっていたならば、大船駅はさまざまな乗り物が集合する、より面白い駅になっていたはずだ。