2021年は横浜市営交通100周年の節目にあたる。横浜市の路面電車は、民営の横浜電気鉄道(以下、横浜電鉄)として開業後、1921(大正10)年に横浜市が買収し、横浜市電に。関東大震災や太平洋戦争末期の横浜大空襲で甚大な被害を受けながらも、そのたびに復興を果たし、昭和30年代に最盛期を迎えた。
しかしその後、モータリゼーションの影響等を受け、昭和40年代に入ると路線の廃止が進み、1972(昭和47)年に全路線が廃止となった。
市営交通となってから100年、全路線廃止から間もなく50年を迎える横浜市電は、どのような路線だったのか。また、どのような車両が走っていたのか。昔日の写真とともに振り返ってみたい。
■横浜市電の発足と関東大震災
横浜市電の前身である横浜電鉄は、1904(明治37)年7月に神奈川~大江橋間(2.6km)で開業した。我が国の電気鉄道は、1895(明治28)年の京都、1898(明治31)年の名古屋、1899(明治32)年の川崎の大師電気鉄道(京急大師線の前身)の順に開業し、横浜は12番目だった。横浜の開業が遅れたのは、複数グループの競願になったことや、人力車夫の猛烈な反対運動があったことなどによる。
少しややこしいのが、当時と現在の駅名・駅位置の差異である。横浜電鉄が開業した当時、現在の横浜駅と青木橋の中間付近に東海道線の神奈川駅(1928年廃止)があり、横浜電鉄の発着場所はこの神奈川駅前にあった。また、当時の横浜駅(初代)は現在の桜木町駅であり、大江橋駅はこの初代横浜駅前にあった。
1905(明治38)年12月には、京浜電鉄(現・京急電鉄)が神奈川駅まで延伸され、1909(明治42)年10月から横浜電鉄との連絡切符も発行された。
その後、横浜電鉄は明治末期から大正初期にかけて郊外へ着々と路線を延ばし、1911(明治44)年12月に本牧、1912(明治45)年4月に八幡橋(現・磯子区中浜町)、1914(大正3)年9月に弘明寺まで開通。沿線で不動産事業を展開するなど、横浜の都市拡大を牽引した。
このように路線や事業を拡張していった一方で、会社の経営は苦しかった。沿線の土地の賃貸など不動産事業が振るわなかったことに加え、第一次世界大戦期(1914~1918年)を通じて諸物価が高騰し、建設資材や電力料金が経営を圧迫。また、米などの価格上昇で生活の苦しくなった従業員が待遇改善を求め、ストライキも頻発した。
資金的余裕のなくなった横浜電鉄は、市に対して運賃の大幅な値上げを申請したが、路面電車はすでに市民の足となっていたため、市民の反対が起きた。これが直接の原因となり、1921(大正10)年4月、横浜市が横浜電鉄を620万円で買収し、横浜市電(運営は横浜市電気局)が発足することとなった。
ところが、横浜市電発足後の1923(大正12)年9月1日、相模湾を震源とする関東大震災が発生。保有車両143両のうち、焼失72両、大破13両と半数以上の車両を失い、車庫と変電所が倒壊または焼失するなど、横浜市電も甚大な被害を被った。
これほどの被害を受けたにもかかわらず、震災からわずか1カ月後の10月2日、神奈川~馬車道間の応急処置が完了し、電車が走り始めた。震災前に杉田線と久保町線の建設および本牧線の延長という、いわゆる「三線計画」に着手していたため、その資材を復旧用として転用できたのである。
その後、横浜市の復興事業は「帝都復興計画」の一環として組み込まれ、市電は既設路線の復旧のみならず、新線敷設も行われた。1927(昭和2)年に隣接町村との合併が行われ、横浜市の市域が大幅に拡大されたことから、新たな郊外に向けて市電の延長が必要とされたのだ。
こうして、1925(大正14)年11月に杉田、1928(昭和3)年6月に生麦、同年12月に六角橋、1930(昭和5)年12月に保土ヶ谷駅方面へ路線が延長され、震災復興工事がすべて終了した1930(昭和5)年の時点で路線延長は46.4kmとなり、横浜電鉄から引き継いだ20.4kmの倍以上の路線網を形成するに至った。
一方、横浜市電のライバルが台頭し始めたのもこの時期である。1931(昭和6)年12月、ともに京急電鉄の前身である湘南電鉄(黄金町~浦賀間)と京浜電鉄(高輪~横浜間)が、横浜~黄金町間の新線建設によってつながり、直通運転が始まると、生麦~弘明寺・杉田間で横浜市電とほぼ競合するようになった。さらに東横電鉄(現・東急東横線)も1932(昭和7)年に桜木町駅まで全通し、白楽~桜木町間で市電と競合した。
同時期に乗合自動車(バス)やタクシーの数も増え、市電の年間乗降客数は1928(昭和3)年度の約5,800万人をピークに、その後は減少していった。
■戦中・戦後の全盛期から廃線まで
横浜市電の利用者が再び増加に転じたのは、1937(昭和12)年に日中戦争が開戦して以降だった。鶴見の軍需工場へ工員が動員され、戦時下のガソリン統制もあって市バスが思うように走れなくなったことから、市電が混雑を極めるようになった。
1940(昭和15)年8月から市電の急行運転も行われたが、これは利用者の少ない停留所を通過することにより、少ない車両数で輸送の効率化と電力の節減を図ることが目的だった。1944(昭和19)年には、軍部の協力により生麦~鶴見駅前間の市電鶴見線が敷設された。この市電鶴見線は、終戦後間もなく廃止されている。
しかし、1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で横浜の市街地は壊滅。市電も「保有台数202台のうち、45台を焼失」(『横浜市市営交通八十年史』)し、変電所等が焼失するなど、甚大な被害を受けた。
戦後、横浜市電を運営していた横浜市電気局は横浜市交通局に改称。占領軍による市中心部の接収や電力不足、極端なインフレにあえぎながらも、1947(昭和22)年8月に全線の復旧が完了した。市電の年間利用者数は1947(昭和22)年に約1億2,200万人と最高を記録し、その後も1963(昭和38)年まで1億人台をキープした。
朝鮮戦争特需で景気が上向くと、路線延長も順次行われ、1955(昭和30)年4月に市電根岸線(間門~八幡橋間)、1956(昭和31)年4月に井土ヶ谷線(保土ケ谷橋~井土ヶ谷駅~通町一丁目間)が開通した。横浜市電の路線延長は51.79kmとなり、営業距離上における最盛期を迎えた。
しかし、栄光は長く続かなかった。1964(昭和39)年5月、国鉄根岸線の桜木町~磯子間が開通すると、市電根岸線・本牧線は大幅な乗客減少に見舞われた。加えて、モータリゼーションの進展によって道路事情が変化したこと、人口が増加した郊外ほど交通需要が高まったにもかかわらず、市電ではその需要に対応できなかったことなどを受け、路線の縮小・廃止の道をたどることになる。
1965(昭和40)年、市電に代わる新しい交通手段として、市営地下鉄の建設が横浜市の「六大事業」のひとつとして発表され、翌1966(昭和41)年、生麦線(洲崎神社前~生麦間)と中央市場線(神奈川会館前~中央市場間)を皮切りに、市電の路線廃止が始まった。あわせてワンマン運転化などの合理化措置も進められた。
そして1972(昭和47)年3月31日、全路線が廃止となり、横浜電鉄時代も含めると68年の長きにわたった市電の歴史に幕が下ろされた。奇しくも同年は、我が国最初の鉄道が新橋~横浜間で開業した1872(明治5)年から100年後、「鉄道100周年」の年だった。