「アヘアヘアヘアヘ…」「いくつになってもあまえんぼう」「ア~メマ!」「かい~の」など、数々の国民的ギャグを生み出してきたお笑い芸人・間寛平が、芸能生活51年目を迎えてなお精力的に活動している。デビュー後まもなく吉本新喜劇の座長に就任するという華々しいキャリアのスタートを切る一方で、先輩の借金の保証人やアメマバッジ負債による莫大な借金、阪神大震災による自宅全壊、地球一周企画「アースマラソン」途中のサンフランシスコでの前立腺がん治療、木から転落して肋骨9本骨折するなど、波乱万丈すぎる人生だ。それでも辛い顔を視聴者には一切見せなかった関西お笑い界のレジェンドは、半世紀以上のキャリアをどう受け止めているのか。
間寛平は1970年に吉本新喜劇へ入団後、前述のギャグのヒットとともに吉本新喜劇のスターとして関西で絶大な人気を獲得する。1974年には吉本新喜劇の座長になり、バブル経済真っ只中の1989年に東京へ進出。それ以降の活躍は周知のとおりだ。本人はこれまでの軌跡を「ホンマにみんなのおかげやなあ、感謝、感謝です。それしかないもん。いろいろやってきたけれど、どれもみなさんに作り上げてもらったものやもん」と感謝する。
そして数々の国民的ギャグは生み出そうとしてひねり出したものではなく、その多くが仲間のツッコミによって生まれたものだという。「『かい~の』はなんでできたん? て言うけど、新喜劇の本番中にちょっとかゆいなと思ったので、テーブルの角で体こすってたんです。それをたまたま池乃めだかちゃんに見つかった。『何してんの?』と言われた時に『かい~の』と言ったらドーン! とウケた。そういうもんなんです。そうやってみんなでツッコんでくれたりして、ここまでやってこられたと思うんですよ。みんなに助けてもらって50年持ちましたわ(笑)」。
50年間でお笑いを辞めようと思ったことは、「まったくないです。めっちゃ幸せです(笑)」と一度もないと断言する一方で、適正については「わからないですねえ」と謙遜。お笑いがどうしてもやりたくて新喜劇に入ってきたわけじゃないから。自分にもできそうやな、やってみようかなという雰囲気で入り、それがどんどん面白くなっていった」と語る。
20代前半は別の仕事をしており、交通事故で入院中に聴いたラジオの影響で、「なんとなくやってみようか」と思ったことがきっかけだった。「タイル張りの仕事では失敗で日々親方に怒られ、ちょうど仕事への意識が変わりつつあった時期だったかもしれない。それくらいなもんでした。見舞いに来た友人が誰か紹介してやると。だから今の若い子みたいにお笑いがどうしてもやりたい! で始まったんではないんです」。
それでも24歳で吉本新喜劇の座長となるなど、キャリアの初期に早い成功を収めた。ただ、若手芸人のスターになるも、私生活では盟友の坂田利夫と安いラブホテルに寝泊まりするなど根なし草の状態で、「めちゃくちゃな生活だった」と当時の日々を述懐する。しかし26歳の頃、お笑いの仕事を強く意識しようと思う出来事が起こる。
「先輩にダマされてすごく借金をしました。その先輩は逃げた。でも大好きな兄さんだったので、もしその先輩が『寛平、一緒に逃げよう』と言っていたら、逃げていたかもしれん。あれはギリギリのところでした。でももう今の嫁とも出会っていたんです。まだ結婚はしてないけど」。
ギリギリの選択だった。しかし、人生の局面で選択肢を間違うことはなかったから今の間寛平があるのだ。「そうですね。ようついていけへんかったと思う。ばん兄さん。これはたまに思い出すんですよ。でもそのおかげで530万円を自分が払わなアカンことになったけれど(笑)」。
それ以来、「お笑いに対しての姿勢が変わったというより、金を稼がな、というそれがまずあった」と言う寛平。この50年について「余裕などまったくなかった。無我夢中ですよ(笑)」と振り返り、「未だに余裕はない。今の若い子はエライですよ。子供もいるもん。何するかわからん連中ばっかりだから、余裕な感じでやっていたら負けてまう」とすべての仕事に全力で取り込んでいる。