このようなコロナウイルス危機への対応のあり方については、実はすでに歴史が一つのヒントを教えてくれているのです。

第一次世界大戦中の1918年から終戦後の1920年にかけて、世界中でスペイン・インフルエンザ(通称・スペイン風邪)が猛威をふるいました。日本の厚生労働省の資料によれば、推計で当時の世界の人口18億~20億人の3分の1以上が感染し、死者は2,000万~5,000万人に及びました。これは第一次世界大戦の戦死者数(1,600万人)を上回るもので、科学的に検証可能なパンデミック(世界的大流行)としては史上最大と言われています。パンデミックは日本にも及び、1918年だけで当時の日本の人口の37%に当たる2,116万人が感染し、25万7,000人が亡くなっています。

スペイン・インフルエンザがどこで発生したかはわかっていませんが、米国には比較的詳細な記録が残っています。1918年3月にカンザス州で始まり、9月頃から全米に広がりました。翌年にかけて米国の全人口の4分の1以上に当たる2,500万人が感染し、67万5,000人が亡くなったとの記録があります。

この際、感染抑制のためにしっかりとした対策を迅速に実施した都市と、対応が遅れた都市では、感染状況に大きな差が出ていたそうです。その中でも対照的だったのがフィラデルフィア(ペンシルバニア州)とセントルイス(ミズーリ州)でした。

フィラデルフィアでは最初の感染が9月17日に報告されましたが、市当局はこれを軽視し、しばらくの間これといった対策をとりませんでした。すでにボストン、ニューヨーク、シカゴなどでも感染者が出ていましたが、フィラデルフィアでは危機感が薄かったようです。

しかも9月28日には第一次世界大戦の戦時公債の購入を呼びかけるパレードが市内各地で繰り広げられ、20万人の市民が沿道につめかけました。この戦時公債は「自由公債」と名付けられ、米国や英国など連合国の勝利をめざして戦費を調達するために発行されたもので、各都市が戦時公債の購入額を競っていたそうです。そうした雰囲気の中では、スペイン・インフルエンザ対策より戦争勝利のための動員対策と意識高揚のほうが優先順位が高かったようです。

このパレードは今で言う「濃厚接触」による巨大クラスターが発生したと見られ、その頃から爆発的に感染が拡大します。市当局が集会禁止や学校閉鎖などの対策を決めたのは、ようやく10月3日になってからでした。しかし、時すでに遅しといった状態でした。

10月第1週の死者は1週間で706人、第2週は2,635人、第3週には4,597人と激増しています。10月16日には1日だけで711人も亡くなったそうです。今回、イタリアでは1日の死者数が700人以上に達したと報じられましたが(3月21日)、それとほぼ同じ数の市民が1つの都市だけで亡くなったのですから、その悲惨さは想像を絶するものがあります。

  • 死者数の推移

    スペイン・インフルエンザの各週ごとの死者数の推移(フィラデルフィアとセントルイス)

A・W・クロスビー/西村秀一訳『史上最悪のインフルエンザ――忘れられたパンデミック』(みすず書房)には、当時の医療崩壊の様子が生々しく描かれています。患者が病院に殺到して病院施設とともに医師や看護師などが足りなくなり、さらに医療スタッフも感染して次々と倒れたため、市当局は「働き手募集。二つの手と働く意欲のある人なら経験・年齢問わず」(前述書・訳文ママ)との広告を出したそうです。埋葬も追いつかず、市の遺体安置所には何百もの遺体が放置されていたという悲惨な話も残っています。

結局、翌年3月中旬までの半年間で死者合計数は1万5,785人に達し、同市の人口(176万人)の0.9%に達しました。現在の東京都に例えるなら、12万5,000人が半年間で亡くなった計算になります。いかに悲惨だったかがわかるでしょう。