――フジテレビ時代で印象に残っている仕事はなんでしょうか?

先ほど言ったペルーの日本大使公邸占拠事件は、ペルー軍とテロ集団のMRTA(トゥパク・アマル革命運動)が銃撃戦を行うときに現地リポートをしていました。銃撃戦が始まると防弾チョッキを着てリポートしていたんです。ただ、ずっと同じことの繰り返しだから、1カ月くらい経ったところで、スクープを上げようという機運が生まれてくるんです。そこからいろいろツテを使って、MRTAの本拠地でインタビューが撮れることになったんですよ。

それでジャングルの奥地まで車で6時間かけて行くんですが、報道陣がそこを走るのは危険だということで、観光ツアーを装っていたんですね。でも、ペルー軍の検問に引っかかって麻薬の密売をやってると思われたのか、車を停められて窓から少年兵がライフルの引き金に指をかけて銃口をむけてきたんです! その間に荷物をチェックされて、報道の大きなカメラを見つけた兵士が大きな声を出したら、もうこめかみにライフルをグッと当てられて、「絶対死ぬ!」と思いましたよ! 今そんな取材をしたらコンプライアンスで許されないし、やりません。偉い人のクビが飛びますから。でも昔はずいぶんムチャをやりました。実弾の入った銃をこめかみに当てられたアナウンサーは、ほかにいないでしょうね(笑)

――それはアナウンサーではなく、戦場カメラマンや従軍記者のエピソードですよ!

あとはやっぱり東日本大震災も忘れられないですね。死者・行方不明者2万人という現場で、1つ1つの別れや、行方不明の方を捜そうという思いを日々感じながら取材しました。実は、阪神大震災のときも初日から現地で取材したんですけど、両方の震災を経験しているアナウンサーはあまりいないんです。16年経ってみんな偉くなっちゃうと、こういう取材は若い者を行かせるというものなので。でも、私は阪神のときにとても苦労したので、若い連中だけでは対応できないだろうと思って「行かせてくれ」と志願しました。そこで取材して得たこと、体験したことは、自分の人生の中でとても大きなことで、いまだに東日本の被災地の方とは5~6人お付き合いして、遊びに行ったり泊めてもらったりしていますから。

――まさに「マイナスの縁」ですね。

そうですね。ほかにも、アメリカのオバマ大統領の最初の勝利宣言は印象深いです。20~30万の人が集まってたんですけど、忘れられないのは報道陣のカメラマンが泣きながら演説を撮ってるんですよ。こんな風に政治に真剣に向き合えるアメリカっていう国は、やっぱり熱いなと心を打たれました。オリンピックもソルトレイクシティに行って、目の前で見るのは本当に素晴らしいなと思ったので、来年の東京オリンピックがまさにお台場を中心に行われるから、フリーになるのを来年まで待つか…という思いもありました(笑)。あとは地下鉄サリン事件も、発生の1時間後には築地の現場に行って、十数時間中継しましたし、あの年は松本智津夫(オウム真理教・麻原彰晃元死刑囚)逮捕のときも、ヘリコプターで7時間くらい飛んでました。アメリカ同時多発テロ事件も一番機で現地に行きましたし、そういう重大なニュースの現場をリポートすることができたんです。

――平成の重大な事件や災害は全部行ってますね!

だからフジテレビには本当に感謝しています。でもキャリアを重ねるにつれて、役割は変わっていくもので、「笠井君が行くのはいいけど、後輩に譲って遠慮してみたら?」って先輩から忠告されたり、妻からも「いい加減、譲ったらどう?」ってよく言われましたね。でも、自分は本当に管理職の仕事が苦手なので、そんなことからもフリーになるのを考えました。

西城秀樹さん

――事件や災害報道以外にも、公私ともにお付き合いされていた西城秀樹さんとの出会いと別れというのは、大きな出来事だったのではないでしょうか。

大きかったですね。秀樹さんの番組(『TVクルーズ となりのパパイヤ』)に初めてリポーターとしてついたのが交流の始まりでした。「笠井君、飲みに行かない?」って誘ってくれて2人で飲みに行ったりしたんですけど、自分は『ザ・ベストテン』とかを見ていた世代だから、「西城秀樹と2人で飲んでるよー! いいのかぁ!?」って心の中では呼び捨てでしたよ(笑)。でも、すごく良くしてくれて、それから家族ぐるみのお付き合いになって。ああいう形で亡くなられたのは本当に残念でしたけど、いまだに秀樹さんのファンからは、私に宛てて「節目なのでフジテレビで特番やるように言ってください」とか、熱心な手紙が来ますからね。アナウンサーになっていなかったらあり得ない方々との親交も、本当に貴重な経験ですよね。

■調子の悪いフジを見限るのではない

――もともとアナウンサーを志望するきかっけは何だったのですか?

小さい頃からしゃべることが好きだったんです。地域の青少年施設のお祭りで野外ステージの司会を子供にやらせようということになって、小学4年生の私がやったんですけど、これがですね…大ウケだったんですよ(笑)。自分の声でみんなが笑ってくれるんだという、喜びみたいなものをそこでつかんで、学校でもどこでも「司会をやる人~」ってなったら全部手を挙げるようになりました。一番ウケたのは、高校のクイズイベントの司会を2年にわたってやったんですけど、それが大人気で(笑)。私が司会をすると人があふれんばかりに人が集まってきて、大賑わいだったんですよ。そのときに「司会でこんなに褒めてくれるんだったら、やっぱり仕事にしたい」と思ってアナウンサーを目指しました。

――そういう経験から、やっぱりずっと現場でという思いが強いんですね。

もちろんそうですよ! マイクを持ってしゃべってナンボという人生なので、人を育てたいというより、自分のことのほうが大事っていう気持ちなんです。それじゃあ管理職になれないですよね(笑)

――入社された87年は、フジテレビ絶頂期の頃ですが、やはり第一志望だったんですか?

私は日本テレビが第一志望で、テレビ朝日が第二志望だったんですけど、どっちも落ちて第三志望のフジテレビに拾ってもらったんです。ところがみんなには「フジテレビで良かったね。笠井みたいな性格は、他局では合わなかったよ」って言われました(笑)

――そうなんですか!?

日テレとかテレ朝とかTBSに対して、フジテレビはサークル的アナウンス室なんですよ。つまり、鍛える場ではなく、みんなが番組で戦って帰ってきたときの癒やしの場。そしてまた次の戦いの場に送り出していくという文化が、いまだに脈々と受け継がれているんです。本当に居心地が良いから、みんな辞めない(笑)。だから本当にいい会社なんですよ。たしかに、番組の視聴率が良くないとかいう話はあるけども、フジテレビが調子悪いから見限って辞めるなんて話じゃないんです。最近はまた復調気味ですから、もしそれが理由で辞めるんだったらもっと前ですよ(笑)