――『ドレミファドン!』で高島さんの発する「イエーイ!」は、高島さんの代名詞にもなりましたが、どんなきっかけで生まれたんですか?
それがねぇ…どこからどういうふうに生まれたのか、ちょっと覚えがないんです。ただ1つ言えることは、高島さん、言葉に詰まると「イエーイ!」でしのいでたんですよ(笑)。「イエーイ!」って言うと2~3秒もつから、たぶんその間に頭の中で「次は何をしゃべろう…」って考えてたんじゃないでしょうか(笑)
――自分で合いの手を入れていたんですね(笑)
そうそう(笑)。あと当時、スタジオに小学生の政宏くんと政伸くんをよく連れてきていました。「将来はパパみたいになりたいの?」って聞いたら、政伸くんは「脚本家になりたい」って言ってたんですよ。それから楽しみにしてたんですけど、いつの間にか役者になってたから「あれ!?」って思って(笑)
■司会者から解答者へ
――その後、王さんは『クイズ!年の差なんて』でも高島さんとお仕事をされていましたよね。
高島さんは非常にキチッとされた方で、『ドレミファドン!』の司会では、台本をお渡しすると、画用紙を切ってカードを作ってそこに書き写して、そのカードで進行していたほど真面目なんですが、一方で、普段お付き合いしてると冗談やジョークがすごく面白かったんです。それが印象に残っていたので、『年の差なんて』をつくるとき、アダルトチームのキャプテンをやってもらおうというのは、私の中ですぐ決まりました。
ところが、高島さんからすると、解答者で台本がないという役割は初めてだったので、非常に不安がってたんですよ。だから、「段取りを一切忘れて、とにかくストレートにしゃべっていただければいいので」とお願いしました。それで実際に出てもらったら、面白い解答がたくさんありました。今でも覚えているのは「光GENJIは何人いるでしょう?」という問題で、高島さんが「いつもローラースケートでグルグル動いてるから数えられない」って(笑)。もうスタジオ中がひっくり返るほどウケました。
――『年の差なんて』はアダルトチームに高島さんがいて、対するヤングチームに中山秀征さんがいましたが、その中山さんが今『ドレミファドン!』の司会を引き継いでいるのは、縁を感じますね。
そうですね。当時は高島さんVS秀ちゃんという対決もありましたしね。
――音楽のジャンルや嗜好の細分化が進む中で、40年以上経った今も盛り上がる「イントロクイズ」は、あらためてすごいコンテンツだなと思います。
「イントロクイズ」ってクイズ番組でネタがないときに、結構使われたりするんですよ。「困ったときのイントロクイズ」って(笑)。でも、めんめんとつながり、こうしてスタンダードになったのは、とても感慨深いですね。
■ずっと「さん」付けで呼んでくれた
――『年の差なんて』終了後に、高島さんと交流はあったのですか?
その後病気になられたので、なんとか元気づけたいなと思って、守谷(徹、当時の『ドレミファドン!』ディレクター)と2人で高島さんを食事会に誘って盛り上げようなんてことも企んだんですけど、結局それはかないませんでした。ゴルフでもやれば青空の下で元気づけられると思ったんですが、高島さんはもともとプレーされないんですよ。だから、晩年は(妻の)寿美(花代)さんを通して情報が入ってくるくらいでしたね。
――そうすると、このたびの訃報は突然だったのでしょうか。
それが1カ月前、ふと「高島さん、どうしてるかなあ」と頭の中に出てきたことがあったんです。本当に不思議ですね。今思うと、『ドレミファドン!』の頃、高島さんは20代の私と全然年が離れている大先輩なのに、ずっと「さん」付けしてくれたんですよ。「くん」付けで十分なのに、「王さん、王さん」って呼んでくれるんです。本当に優しい人でした。あらためて、心からご冥福をお祈りします。ありがとうございました。
●王東順
1946年生まれ、東京都出身。中央大学商学部卒業。フジテレビジョンに入社後、『クイズドレミファドン!』『なるほど!ザ・ワールド』『クイズ!年の差なんて』『新春かくし芸大会』『FNSの日テレビ夢列島』『出たMONO勝負』などを制作したほか、アナウンサースクール設立、携帯電話コンテンツの立ち上げ総合プロデュース、お台場社屋イベント「BANG PARK」立ち上げ総合プロデュース。01年に退社後、事業領域を広げて各種コンテンツ事業を手がけ、『クイズ100人力』(NHK)などのプロデューサーも務めた。現在は企業トップのインタビューDVD『ビッグインタビューズ』を160本以上制作中。その他、中小企業の商品サービス開発のコンサルティングなど。