■昔話の神社、ホタルが飛び交う湿性公園
東名高速の下をくぐったすぐ先に秦野市と中井町の境界がある。これから歩く中井町は、湘南軽便の廃止後、鉄道駅がなくなったこともあり、普段は訪れる機会が少ないものの、実際に歩いてみるとなかなか良い場所がたくさんある。
東名高速をくぐって2つ目の信号から左手に分かれる旧道を進み、800mほど歩いた先の三叉路付近に「上井ノ口駅」跡がある。このあたりは勾配のきつい坂が続いており、駅跡の記念碑の説明を見ると、「客が降りて坂を登り切れない列車を後押しするのどかな光景も見られた」と記されている。
「上井ノ口駅」跡の100mほど南にある蓑笠神社は、ぜひとも立ち寄りたい場所だ。この一風変わった神社の名前は、中井町に伝わる以下のような昔話によるとのこと。
「その昔、天照大神(アマテラスオオミカミ)の怒りに触れ、天上界を追放された素戔嗚尊(スサノオノミコト)が天降った場所が大山であった。「雨降(あふり)山」の別名を持つ大山はその日も雨が降っており、蓑と笠をつけた素戔嗚尊は南に向かって歩き、一夜をこの地で過ごした。次の朝、出立するときには雨も止み、素晴らしい天気になっていたので、尊はうっかりして蓑と笠を忘れていってしまった。」
『古事記』『日本書紀』などによれば、スサノオノミコトは出雲に降り立ち、ヤマタノオロチを退治したことになっているから、その異説というべきか。このほか、蓑笠神社の境内には「かながわの名木100選」に選ばれている大きなケヤキのご神木をはじめ、多くの緑があり、瑞々しい雰囲気に包まれている。
そして蓑笠神社を後に、かつて上下の列車を入れ替える「すり替え場」があったという宮向自治会館前を通り過ぎて歩いて行くと、厳島湿性公園の入口付近にたどり着く。
厳島湿性公園は、地元の人々から「弁天さん」として親しまれる厳島神社がまつられている島を中心に、清水が湧き出る湿地が広がっている。シュレーゲルアオガエル、ホトケドジョウといった希少な生き物の生息も確認されており、5月中旬から7月上旬にかけての夜にはゲンジボタルやヘイケボタルの幻想的な舞を見ることもできるという。
厳島湿性公園の少し先で米倉寺という寺院の門前を通過し、葛川に架かる橋を渡る。橋を渡ってすぐの酒屋の少し先に「下井ノ口駅」跡の記念碑がある。
■田園風景を歩き、湘南軽便の本社跡へ
「下井ノ口駅」跡を過ぎると、田園風景がいよいよ色濃くなり、今回の散策の中で最も気持ちよく歩けるエリアに入る。
昔懐かしい火の見櫓や、田園風景の中に溶け込むようにたたずむ森に囲まれた八幡神社などに立ち寄りながら歩を進める。午後の陽が射し、水の張られた田んぼが白く輝く様子がことのほか美しい。
深呼吸しながら散歩を続けると、やがて道は二宮町へ。今回の散策もどうやら終盤に差しかかったようだ。二宮町に入ると、少しずつ道の両側に家が増え始め、まもなく石材店の店先にある「一色駅」跡にたどり着く。
「一色駅」跡を過ぎると県道と合流し、一気に街中の風景に入り込む。しばらく県道を歩き、西友の手前から旧道に入ると、ほんの100mほど先の「中里」交差点の角に、最後の途中駅である「中里駅」跡の記念碑がある。信号を渡り、そのまま新幹線の高架下をくぐって歩いて行こう。
途中、路肩に吾妻山の登山口を示す道標がある。もし、12月下旬から3月にかけて、この地を訪れたなら、ぜひとも吾妻山への登山をおすすめしたい。山頂(標高136m)付近には、およそ6万株の菜の花が植えられ、菜の花畑ごしにきらきら輝く相模灘や、冠雪した富士山を望む絶景が楽しめる。
吾妻山山頂に立ち寄らずに、そのまま道なりに歩いて行けば、1kmほどでJR二宮駅の北口にたどり着く。駅の少し手前にある薬局やフラワーショップが入居している建物が、かつて湘南軽便の本社兼「二宮駅」だった建物だ。現在、建物は平屋になっているが、建物の横の駐輪場付近にある記念碑の写真に、2階建ての本社建物が写っている。じつはつい最近まで、2階部分も含めて残っていたそうだが、惜しいことに数年前、安全のために2階部分を取り壊したのだそうだ。
最後に二宮駅の南口も歩いてみよう。その存在に気づく人も少ないが、バスロータリーに「伊達時(だてとき)彰徳碑」という石碑がある。伊達時は衆議院議員を務め、現在のJR二宮駅の開設に尽力。湘南軽便の前身である湘南馬車鉄道の設立発起人となり、初代社長にも就任した人物であるという。
さて、今回は湘南軽便の廃線跡を探索した。廃線後すでに80年も経過しているため、各駅があった場所に建つ記念碑を除き、鉄道の遺構はほとんど残っていない。しかし、沿道にはさまざまな公園や里山、田園風景が広がっており、風光明媚な車窓風景を想像しながら歩くにはもってこいだろう。自然満喫の散歩コースとしても申し分ない。
なお、今回は秦野側から歩き始めたが、逆に二宮側からスタートし、昔の大山詣での旅人の気分を味わいつつ、北にそびえる大山をめざして歩くのも面白いと思われる。
筆者プロフィール: 森川 孝郎(もりかわ たかお)
慶應義塾大学卒。IT企業に勤務し、政府系システムの開発等に携わった後、コラムニストに転身し、メディアへ旅行・観光、地域経済の動向などに関する記事を寄稿している。現在、大磯町観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員、温泉ソムリエ、オールアバウト公式国内旅行ガイド。テレビ、ラジオにも多数出演。鎌倉の観光情報は、自身で運営する「鎌倉紀行」で更新。