テレビプロデューサー熊谷健(くまがい・けん)さんが、2018年1月27日にこの世を去った。80歳だった。

熊谷さんは円谷プロ製作の特撮怪獣シリーズ『帰ってきたウルトラマン』(1971年)ではプロデューサー補、『ウルトラマンA(エース)』(1972年)『ウルトラマンタロウ』(1973年)『ウルトラマンレオ』(1974年)ではチーフプロデューサーとして、作品作りの要を担って活躍した。『レオ』以降は国際放映に移り、日本テレビの連続テレビドラマ『西遊記』(1978年/第1シリーズ)のプロデューサーも務めた。

自身がデザインを手がけた人気怪獣ベムスター、ブラックキング、シーゴラスのソフビ人形(ウルトラ怪獣シリーズ)に囲まれ、笑顔を見せる在りし日の熊谷健さん(2014年/撮影:筆者)

青森県出身で、子ども時代から民話・昔話の類に親しんでいた熊谷さんは、「ウルトラマン」シリーズを「現代の民話」と位置づけ、明るく楽しいファンタジーの要素と怪奇・幻想の要素をあわせ持った印象的なストーリー展開を推し進めた。そのほか、ウルトラの父、ウルトラの母、ウルトラマンタロウを中心としたウルトラファミリーの確立に努めるなど、ウルトラマン世界の拡大、シリーズの飛躍・発展に尽力した功労者のひとりだった。

ここでは、熊谷さんがいかにして円谷プロに関わり、子どもたちに大いなる「夢」を与える仕事の担い手になったのかを、筆者が生前に取材を行ったいくつかの証言をもとに振り返り、その偉大なる功績をたたえたい。

2人の"師"との出会い

熊谷さんは青森県にある弘前大学野辺地分校に在学中、小津安二郎監督の映画を観て深い感銘を受け、「この人の弟子になりたい」と思って上京を決意したという。日本大学藝術学部に編入した熊谷さんは、小津監督の自宅へ直接赴いて弟子入りを申し込んだ。小津監督の助手として携わった映画は、京都・宝塚映画の『小早川の秋』(1961年)。しかし、惜しくも小津監督が1963年に60歳という若さで亡くなったこともあり、急きょ東京へ帰還。友人の紹介で東宝に赴き、美術助手として『キングコング対ゴジラ』(1962年)の特撮現場に入った。そこで出会ったのが"特撮の神様"と呼ばれた特技監督・円谷英二氏である。

熊谷さんにとって、小津監督の「人間の家族愛、隣人愛を真正面から描く」人間ドラマの作り方も魅力的だったが、円谷監督の「現実に存在しえない場面を特撮によって描き出す」手法もまた、強く興味をひかれるものだった。

「円谷さんも僕も東北出身(円谷監督は福島県出身)だから気が合いました。特撮を駆使して『かぐや姫』を撮りたい、といつも言っていたので、僕の考えているイメージとピッタリ。よく映画のストーリー案を書いては、読んでもらっていました。『将来なにをやりたいんだ』と聞かれて、プロデューサーになりたいと言ったら『お前にいちばん合わない仕事だな』と笑われました」と、熊谷さんは円谷監督との思い出を語っている。

円谷プロへ

やがて熊谷さんは、円谷監督がテレビの世界に目を向けて設立した「円谷特技プロダクション」へ入社することになる。当初はプロデューサーではなく、金城哲夫氏を室長とする文芸企画室で、テレビシリーズ『WoO』(未制作)や『UNBALANCE』(後に『ウルトラQ』へと改題)のストーリー案を手がけた。

熊谷さんが「原案」としてクレジットされている『ウルトラQ』の第25話『悪魔ッ子』は子どもの妖怪「座敷わらし」がそもそものアイデアで、第22話『変身』もクレジットこそないが、熊谷さんのアイデアによる「禁とされるイワナを食べた男が祟りに遭う」という民話がベースになっている。

「僕としては、特に『SF』というものを意識したわけじゃないんです。幼いころから民話、怪談のたぐいに親しんでいて、そういうところから発想したんですよ」と熊谷さんは語っていた。後の「ウルトラマン」シリーズにも通じる民話・怪談志向の原点は、円谷プロのテレビ作品第1作の『ウルトラQ』の段階ですでに確立されていうわけだ。

その後『ウルトラQ』『ウルトラマン』(1966年)では本編班の製作進行、『ウルトラセブン』(1967年)では特撮班の製作主任を務めた熊谷さんは、『怪奇大作戦』(1968年)の最終回(第26話)「ゆきおんな」でプロデューサーとしてデビュー。科学を悪用して犯罪を起こす人間に科学のメスで切りこむSRI(科学捜査研究所)の物語という設定の『怪奇~』の中に、ファンタジックな「雪女」伝説をベースとした異色作を1本加えている。

その後、熊谷さんは現代の怪奇・大人の怪談というべき『恐怖劇場アンバランス』(1973年/製作は1969年)のプロデューサーとなり、13本もの怪奇エピソードを作り上げた。その一方で、5分枠の帯番組『ウルトラファイト』(1970年)の新規撮影分を制作、監督した。当初は『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』の名場面を編集した番組企画だったのが、タイトル数が規定の本数より少なかったため、当時残っていたぬいぐるみを造成地や海岸に持っていき、ごく少数のスタッフで撮影を敢行したという、いわば苦肉の策というべき作品だった。

しかし、熊谷さんはただ怪獣とウルトラセブンが戦っているものだけでなく、だんだんと"戦いのお膳立て"ともいえる怪獣同士の複雑なキャラクター描写などを寸描するようにしていき、登場怪獣たちに愛すべき存在感を与えようとした。種別の異なるさまざまな怪獣が、自由に歩き回ってのびのびと自己主張する。熊谷さんの好みとする民話的発想は、この作品にも生かされていた。