このインタビューの直前、「メイク・ア・ウイッシュ オブ ジャパン」の25周年記念パーティーで壇上に招かれた大黒は、申し訳なさそうにマイクの前に立つとボランティア活動や同曲に込めた思いを吐露。スピーチに耳を傾けていたボランティア参加者からは温かい拍手が送られていた。
病気で歌う夢を絶たれて
私のような者が皆様を差し置いて恐縮なんですけども、すごくうれしいです。25周年、まずはおめでとうございます。大黒摩季と「メイク・ア・ウィッシュ」はドンピシャの同級生なんです。大黒摩季のデビューは92年5月27日。その年の12月に「メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン」が設立されました。縁は想像を超えて、勝手につながっちゃうものだなとすごく思っています。
テレビ番組企画で、歌手デビュー15周年を機にハワイでメイク・ア・ウィッシュのイベントに出演することが、突然決まったんです。泳げなくて水恐怖症だったんですが、サーフィンをすることになって。テレビは私を死なせないと思ったので挑戦することにしました(笑)。
ワイキキにレジェンドサーファーがいて、すごくおっかなくて悪そうな人なんですが(笑)、ハートがすごくピュアで。その人が「メイク・ア・ウィッシュ」というチャリティーイベントをやると。「摩季は歌手でしょ? ハワイの人たち、子どもたちにも全部つながるはずだ」と、チャレンジさせられました。
「Make a Wish」はそのハワイで作った曲。日本人の私以外には日系人やアメリカ人、その他にもいろんな人種の方がいて。そして、パールハーバーには歴史がある。そこで歌を作ることになったんですが、何よりもメイク・ア・ウィッシュという言葉が好きでした。
私の北海道の実家はパン屋さんで、商売でワサワサした家で。幼いころ、さびしい時もあったけど、音楽を聴いている時だけは「メイク・ア・ウィッシュ」だったんです。だから、危うく積木くずしになるところを夢や希望の力だけで、ギリギリこうして音楽のロックというところに帰って来ることができました。
夢の叶え方はブルース・スプリングスティーンに教わり、人としてサバイバルすることはボブ・ディランに教わり、何かに反発する時は物を壊すのではなく「ハートで行け」というのをローリングストーンズから教わり。そんなことを思い起こさせる言葉だと思います。
サーファーの人に「歌手でしょ?」と言われて「このオヤジ!」と思ったんですけど(笑)、「一緒に歌詞を作ろう」と。だったらバンドは、そこに住んでいるすべての人種で。この時のライブには、大野(寿子)さんと一緒にメイク・ア・ウィッシュのチームとサーファーチームと一緒に出て、会場のみなさんとメイク・ア・ウィッシュのPRをしました。クリムゾンさんというメーカーさんがタオルを提供してくれて。
ハワイ人、スペイン人、アメリカ人、日本人のバンドを作って、出来上がった曲はすごくヒューマンでボーダレスな曲になりました。その時までは協力する側だったんですが、6年間病気をして歌うことも絶たれてしまって、夢も希望もなくなった時。その時の「メイク・ア・ウィッシュ」が、「もう1回歌いたい」でした。
そう思っている時に、吉川晃司さんが「大黒くん、君の声が欲しいから出てきなさい」と言ってくれて(笑)。きっと昔の声は出ないと思ってたんですが、「大丈夫だよ」という人が一人でもいたら、ちょっとだけ、半歩でも進める。今日より明日。明日がつながっていくと未来になる。こうして去年の8月に無事復帰させていただきました。
私は企業の方々のように、コンスタントに何かを提供してきたわけではないのですが、メイク・ア・ウィッシュを作っているみなさんとお子さんももちろんなんですけど……私のファンの人たちは8割が女性で。この間も、「お母さんの介護がずっと大変だったけど、やっと3時間空けられるようになったから元気をもらいにライブに来ました」という方がいました。きっと私のミッションというのは、そうやって夢を叶えるお手伝いをしているメイク・ア・ウィッシュのみなさんやお子さんたちの周りを盛り上げる役なんだなと、今はちょっと実感しています。
メイク・ア・ウィッシュという希望の力がこれからもずっとつながって、「POSITIVE SPIRAL」という曲があるんですが、Change of Smile……笑顔をみんなでシェアできますように。そして、ネガティブスパイラルじゃなくてポジティブな気持ちがスパイラルしていきますように。そういうメイク・ア・ウィッシュになってもらえればなと思っています。
これからもみなさんが困ったら「Make a Wish」を歌って、"不器用な言葉"を超えていければなと思います。これからもどうぞよろしくお願いします。応援しています!
■プロフィール
大黒摩季
札幌市内の高校を卒業後、アーティストを目指して上京。スタジオ・コーラスや作家活動を経て、1992年「 STOP MOTION」でデビュー。2作目のシングル「DA・KA・RA」をはじめ「チョット」「あなただけ見つめてる」「夏が来る」「ら・ら・ら」など立て続けにミリオンヒットを記録し、1995年にリリースしたベストアルバム『BACK BEATs #1』は300万枚を突破。2010年に病気治療のためアーティスト活動を休止。その間、地元・北海道の長沼中学校に校歌を寄贈、東日本大震災により被災した須賀川小学校への応援歌・歌詞寄贈、東日本大震災・熊本地震への復興支援など社会貢献活動を行う。アトランタ・オリンピックや「ゆうあいピック北海道大会」のテーマソング、アテネ・オリンピックの女子ホッケー・チームのサポートソング、2015年には再生に向けたスカイマーク・エアラインに応援歌を提供するなど「応援ソング」には定評がある。2016年8月、ライジングサン・ロックフェスティバルでの出演を皮切りに、故郷である北海道からアーティスト活動を再開した。