検索可能な世界を歩かせるためのゲーム『ポケモンGO』
――ところで『ポケモンGO』は今でもなさっているのですか。
いや、数日で飽きて止めていて、もう全然やってないです。でも良いんですよ。ジョン・ハンケ*もインタビューで「これは人を外に連れ出すためのツールである」と言っていますから。この情報化され検索可能になった時空間は、ただそこを歩くだけ、外に出るだけで既に充分な学習機会を人々に与えるもの。検索可能になったこの世界は、それ自体が豊かな情報源――情報の海である、というのが彼らの立場であり、そこを歩かせるだけで良いんです。その人を外に連れ出すゲーミフィケーションが『Ingress』(2013年)や『ポケモンGO』に過ぎないので、それらをきっかけに僕も散歩が趣味になりましたし。これこそジョン・ハンケの狙いです。『ポケモンGO』に対してゲームとしてつまらないとか言っている人は馬鹿ですよ。全く別のところに狙いがあって、ゲーム自体は蝶番に過ぎないのですから。
*ジョン・ハンケ:『Ingress』や『ポケモンGO』といったゲームアプリをリリースしてきたナイアンティック社のCEOでGoogle幹部ともなっている開発者。
オタクは総合性だった
――なるほど。本書では、テクノポップやニューウェーブなどに代表されるサブカルチャーの「80年安保」から、「新人類(後の「サブカル」)的なもの」と共に分化したものとして、ニュータイプとしてのオタクたちがあると分析されていて、そのオタクの方々が持ち得たであろう可能性についても言及されていますよね。中心に都市的音楽分化がある「新人類的なもの」の方は分かるのですが、ニュータイプのオタクというのはどのようなイメージになるのでしょうか。
イメージし辛いのは(私たちの)世代的な感覚の断絶でしょうね。80年代末から90年代の前半まで若いオタクは、もっと総合知識人的な存在だったんですよね。基本的にはSFやアニメが中核にあってミリタリ、モータースポーツ、模型とか、そういった新興の文化産業を中心に、何かこれまでとは違う若者の教養体系のようなものを彼らは彼らで作ろうとしていたんですよ。他にも、例えばアメリカのボードゲームを輸入し自分たちで翻訳してやっていた人たちもいました。パソコン通信の時代、彼らは日本でいち早くコンピューターカルチャーの洗礼を受けている層でもあったんですよね。あの時期、日本の都市文化の中には、そういった新しい総合知識人としての日本人のビジョンとしてのオタク像の萌芽があったんです。ただ、それは育たなかった。
――なぜですか。
一言で言うと、やはり大衆化の中で非常に動物化*していったんでしょうね。僕は最近、猪子寿之さんと仕事をしたり落合陽一くんの本の編集をしたりしていますが、本書を出すまで「宇野さんはサブカルチャーに興味がなくなって、テクノロジーやビジネスの方向に関心がいってしまったんですね」という風によく言われていました。でもそんなことはなくて、変な話なんですけど、オタクだからこそ……例えば今だったらガンダムが好きだからこそ、3Dプリンターにも興味があるんですよね。でもそれを今の若いオタクたちは多分、分からないんだと思うんですよ。
*動物化:批評家で哲学者の東浩紀が著書『動物化するポストモダン』(講談社/2001年)において、 アレクサンドル・コジェーヴの思想を踏まえて提唱した概念。宇野氏は『ゼロ年代の想像力』で、「大きな物語」が消失したポストモダンの現代において、人々が静的に存在するデータベースから、欲するままに情報を読み込んで「小さな物語」を生成するようになり、他者を回避しがちになる状態を示した。
――うーむ……なるほど。
20、30年前は、ガンダムが好きでグッズも好きだったら、3Dプリンターも当然好きだろうと皆思ったハズですよ。富野監督が好きなら当然、落合くんも好きだろうと思っていたハズ。でも今だったら比喩的に言うと「富野監督が好きなのに、落合氏も応援しているんですか?」と言われてしまう。これが30年の間にオタクが失ったものなんですよ。やっぱりオタクというのは、今は専門性ですけど、昔は総合性のことだったんですよ。この感覚が多分、平成生まれの方には分からないことだと思います。平成が始まった頃くらいのオタクは、それこそニュータイプ……新しいタイプの総合知識人のビジョンだったんですよ。
情報の束として世界をみる視点
――なるほど。テクノポップやニューウェーブの方は、当時を「いわゆるメジャーカルチャーとアングラカルチャーとが未分化で、カオティックで面白かった」と振り返るような人たちの感覚が、当時の音楽雑誌やカルチャー誌などを読み返すと確かにそうだなぁとか、こうだったんだろうなぁと分かることもあります。ニュータイプの方はそのようなことはあるのでしょうか。
こっちの方が新興のジャンルだったんで、あんまりハッキリと文献には残っていないんですけど、80年代後半や90年代前半のアニメ雑誌とか、あとやっぱり初期の『月刊OUT』(みのり書房)を見るとその感覚が分かると思いますね。『エヴァ』以前……第2次アニメブームが終わった80年代後半から90年代前半はあんまりアニメが盛り上がってなかったんですよね。その間の昔の『月刊ニュータイプ』(角川書店)のようなアニメ雑誌を読んでみると、相対的にアニメの記事がすごく少ないんですよ。その代わり、先に挙げたような色んなジャンルのテーマが取り扱われていました。角川のお家騒動前後、角川春樹氏から角川歴彦氏に移る前後の角川文化が体現していたように、オタクというものが新しい総合性だった一瞬があったんですよ。僕はその頃の空気をギリギリ知っている世代なんですよね。
――その当時、宇野さんはお幾つくらいになるんでしょう。
中学生くらいです。高校に上がった頃には動物化が始まっていて……だんだんオタクに失望していく10代後半でした(苦笑)。
――(笑)。
今では、オタクというのはネット右翼の温床みたいに思われているかも知れないですけど、当時は、やっぱり基本的にはフューチャリストの集まりだったですよね。テクノロジーと親和性が高く、その一方で70年代のディストピアSFも経由してきていたから、批判的に関心を向けていたんですよね。
――なるほど。物語よりも、もっと雑多なデータ群から整理することができていたという。
当時のオタクたちは、コンピューターカルチャーというものが、この先、世の中を大きく変えていくと最も早くわかっている訳です。だからSFやアニメといった何か新興の物語文化とコンピューターカルチャーを中心に置きながら、自分たち自身の教養体系を見出そうとしていた人々なんですよね。加えて80年代や90年代の話なんで、何だかんだ言ってマルクス主義やベビーブーマーへの反発、つまりイデオロギーに対しての反発が強いんですよ。
――それは分かるような気がします。
その頃にオタクたちは、新人類のように「いや別に政治の話はダサくてできない」とは言わなかったけれど、「昔のように左翼ではなく、リアルポリティックスでいこう」という姿勢を示していた。だから物語やイデオロギーで世の中を見るのではなくて、情報の束として見ようという姿勢と親和性が高かったんですよ。彼らのそういった感性は、後の平成の改革勢力と繋がっていく新保守的な発想とすごい親和性が高かったんですよね。もちろんどちらも失敗したプロジェクトで、僕も手放しで肯定する気は全くないですけどね。
都市や企業は「一人一人がより参加しやすい」
――ところで本書終盤では「『政治と文学』から『市場とゲーム』へ」というテーゼも示されていて、とても納得したのですが、一般的な市井の人はどういった形でアプローチしていけば良いのでしょう。
僕はむしろ、市井の人間の方がしやすいと思います。20世紀に比べると21世紀は、政治的なアプローチは有効じゃなくなっていっていると思うんですよ。そもそもカリフォルニアン・イデオロギー自体が、ローカルな国家ではなくグローバルな市場から世の中を変えていこうという運動ですよね。だから例えば、デモや選挙で世の中は変わらないと言っているような人たちは、政治的なアプローチだけが世の中を変えることだと思い過ぎていると思うんです。もちろん、それはすごく大事なことなんだけど、そうでない回路もすごく力をつけてきていますよね。例えば今、福岡で起こっていることを考えてみれば良いと思います。福岡は、地政学的にアジアに近いことを利用して非常に発展していて、非常に閉鎖的な日本の中で、都市単位で勝手に開いていっているんですよ。でも僕は、こここそがグローバル化の本質だと思っていて、国家は本質的に閉じているものだと思うんですよね。もともとバラバラのものを一つに集めるための共同幻想なので。対して都市は要するにハブで、そこに人がたまたま住むようになったものなので、定義的に開いているわけです。やはりグローバル化に対して親和性が高いのは国家ではなくて都市ですよね。
――なるほど。
でも国家より都市の方が人はコミットしやすい訳ですよ。同じようなことが企業にも言える訳ですよね。なので、家族よりも大きくて国家よりも小さい中間的なのものが、21世紀、グローバル化時代の主役になっていくと思っている。国家というものは、もう数千万単位、一千万単位の人間の多様な規模のものが多いし、もう多様な価値観を持っている人間の利害を調整するプラットフォームにしかならないと思っているんですよ。しかし都市や企業というのはまだ規模的に自分たちの価値観というのを語り得るし、離脱可能性が高いじゃないですか。なので、21世紀の主役というのは、そういった中間のものになっていくので、それこそ市民の一人一人がプレイヤーとしてより参加しやすい環境になっていくと僕は考えています。
■プロフィール
宇野常寛
評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など多數。企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。京都精華大学ポップカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師など、その活動は多岐にわたる。