竹内氏が当時円谷プロ社員だった関係で、怪獣ファンたちの会合は円谷プロの社長室で行われていた。もちろん、一氏の後を受けて三代目社長となった円谷皐氏(円谷英二特技監督の次男で元フジテレビプロデューサー)公認である。
皐氏の紹介で、当時製作中だった『ウルトラマンレオ』(1974年)プロデューサー・熊谷健氏が彼らに意見を聞きに訪れた。竹内氏をはじめとするメンバーは、「第1、2話でレオの怨敵として登場したマグマ星人との勝負はついていないから、また登場させれば」「ダンが変身できないのだから、カプセル怪獣を使えばいいのではないか」というアイデアを出し、その結果、彼らの意見は第30話でマグマ星人が再登場し、第34話でカプセル怪獣ならぬボール怪獣セブンガーという形で反映され、映像化されている。
「怪獣倶楽部」は、『ウルトラマンレオ』放送真っ只中の1974年に、竹内氏の呼びかけでメンバーが集結する。ただし、最初から同人誌を作るためにメンバーが集まったというわけではなかった。あくまでも会合でそれぞれの意見交換や情報収集を行うことが主であり、同人誌はその結果として形になったものだった。これがドラマと実際との大きな違いだといえる。
竹内氏が「酒井敏夫」のペンネームで編集を行った同人誌『怪獣倶楽部』創刊号は、1975年4月に発行された。目次をざっと見てみると、『ミラーマン』(1971年)、『ジャンボーグA』(1973年)などで怪獣デザインを手がけていた米谷佳晃氏がタイトル・表紙構成を行ったほか、音楽に造詣の深い西脇氏による「伊福部昭の魅力」、徳木吉春氏による「映画批評『メカゴジラの逆襲』、池田憲章氏による「TV批評『恐怖劇場アンバランス』を見て」というように、70年代後半から80年代にかけて多く発行される特撮・アニメ誌、サントラLP解説書などで大活躍する人々が目次に名を連ねている。
竹内氏は、自身の怪獣人生を振り返った自伝「元祖怪獣少年の日本特撮映画研究四十年」(実業之日本社/2001年)にて、同人誌『怪獣倶楽部』について「雑誌などで取り上げられ、問い合わせの手紙や葉書が来た」ほど話題になったにもかかわらず、決して発行部数を増やさなかったという。あくまでも仲間うちのみに配布し、各々の評論や意見を楽しみ、切磋琢磨することに重きを置いていた。ただし、その内容については最初から「プロの視点」で評論、研究を行う方向でいくと定めていたそうだ。
同人誌『怪獣倶楽部』は、その後も第二号(1975年6月)、第三号(1975年9月)、別冊 研究・資料蔵書第一巻「G作品絵コンテ」(1975年11月)、第四号(1975年12月)、第五号(1976年12月)と続いていった。ドラマでは諸々の事情によって『ウルトラセブン』および『ウルトラマン』に特化した内容の同人誌となっているが、実際の『怪獣倶楽部』が扱った内容は、東宝特撮映画、東映特撮ヒーロー作品、大映の『ガメラ』『大魔神』シリーズなど多岐にわたっている。
円谷プロ作品、「ウルトラマン」シリーズだけに留まらず、東映の『仮面ライダー』シリーズの論評や、当時における近作『コンドールマン』の紹介もあり、資料再録や関係者インタビュー記事も含めて、極めて資料性の高い本づくりを目指していることがわかる。
「当時はワープロなんてなかったですから、みんな手書き原稿をそのまま印刷していた」(西脇)
「僕は他のみなさんのような評論なんて書けなかったけれど、竹内さんから何か書かなきゃだめだ、って言われて、父親の人脈で知り合いだった有川貞昌(特技監督)さんを訪ねて、インタビューを取ったりしていました」(原口)
「最初は何をどう書いていいかわからなかった。お手本があるわけでもないし。同人誌を作るのが目的の会になっていたら、抜けていたかもしれません(笑)」(金田)