自動運転の実用化に向けた現実的な道筋とは
また、自動運転には、これまでクルマの顧客でなかった人を顧客にする可能性もありそうな気がする。
高齢者や障害を持つ人もその中に入るが、さらに、免許を持たない人、あるいは免許証を持ってはいるが、運転に自信がなくペーパードライバーでいる人も、自動運転で目的地に安全に行けるなら、クルマを持ちたいと思うかもしれない。
テレビ番組で先頃、目の不自由な人もスマートフォンを使えるように練習する様子が報道された。そのように、通信との深い連携もこれからクルマに取り込まれていくならば、あらゆる人がクルマを自由に、自在に利用できる社会が自動運転の実現によって訪れるかもしれない。そのとき初めて、クルマは自由の象徴になるのだ。クルマは自由だという声はあるが、今は、限られた人のための道具でしかない。
マツダならではの自由な発想、自動運転にいかせるか
ところで、これまで運転支援機能付きのクルマを様々に試乗してきた私の経験からすると、現在のレベル2を超えてレベル3となった際、普段の走行には自動運転を使いながら、万一の際には人が再び運転を任されるというのは、非常に考えにくいと思っている。なぜなら、運転支援機能を利用しているうちに、自動操作に頼る気持ちが強まっていき、もっと任せられるのではないかという心理状態に陥ってくるのを私自身が体験したからだ。運転している意識がどんどん薄れていくのである。
自動運転への道筋として、レベル1からレベル4へと段階を踏む開発は、机上の技術開発の行程でしかない。実用化へ向けては、藤原氏の言う運転者自らがハンドルを握る状態で万一を想定した対処法か、あるいは、完全自動運転へと一気に進展する形でなければ危ないと思う。
自動車関係者は専門家であるがゆえに、得てして従来のクルマの進化・発展の道筋で将来を構想しがちだ。しかし、EVや自動運転は、従来にない発想からクルマの新たな価値を見出さなければ、役に立たないものを作ってしまう可能性がある。それは、メディアにおける評論も同様だ。
ぶつからないクルマになり、エンジン車に比べ部品点数の少ないEV独自の車体構造を採り入れ、そこに完全自動運転が入ったとき、クルマはより多くの人々を受け入れる存在になれるのではないか。そういう視点での論議を早急に積み重ねていくことが、未来の明るいクルマ社会を構築していくと考える。
マツダのような中堅の自動車メーカーこそ、そういう自由な発想を取り込める可能性を持つと思う。「ロードスター」という、それほど台数を見込めないスポーツカーを25年以上も作り続け、振り返れば累計販売台数100万台を達成してきたマツダである。同じように、25年後に振り返れば、高齢者、障害を持つ人、ペーパードライバーの全てを受け入れる、100万台の自動運転車が存在するまでになったという成果を待ちたいものだ。