藩の使節としてイギリスへ渡航

五代が次にめざましい活躍をしたのは1865年のイギリス渡航です。これについては、その前段の出来事から説明しなければなりません。1862年に現在の横浜市生麦で、当時の藩の最高実力者・島津久光の行列に4人のイギリス人が馬で乗り入れてきたため薩摩藩士に斬られて一人が死亡するという事件が起こり(生麦事件)、その翌年にイギリスが報復のため艦隊を鹿児島湾内の奥深くまで進攻して鹿児島城下を砲撃したのです(薩英戦争)。この時、五代は自分が購入した藩所有の蒸気船を守ろうとして乗船していましたが、イギリス軍に焼かれて沈没させられ、イギリス軍の捕虜となってしまいました。

この戦争で薩摩はイギリスとの軍事力の差を見せつけられました。もはや「外国を排撃すべし」という攘夷論が通用しないことを悟り、逆にイギリスから武器や技術を導入し、藩の富国強兵と殖産興業を推進する方針に転換します。

間もなくイギリス軍から釈放されて薩摩に戻った五代は、イギリスとの関係強化とともに、藩の将来を担う優秀な若い藩士に最先端の学問と技術を学ばせるため、イギリスに留学生を派遣すべきとの上申書を藩に提出しました。その結果、藩の正式使節として五代ら3人、留学生15人、それに通訳1人の合計19人が決定し、1865年にイギリスにむけ出発しました。

これも密航です。薩摩藩はそれを百も承知で実行したわけで、留学生派遣がいかに重要なプロジェクトだったかがわかります。一行は船で2カ月かけてロンドンに到着し、留学生はロンドン大学に聴講生として入学しました。留学生の中には森有礼(のちの文部大臣)など、帰国後に活躍する人材が数多くいます。

紡績機械の大量買い付け、パリ万博出品の契約など成果

一方、五代は主に武器や機械購入の商談でイギリス国内や欧州を精力的に走り回りました。その代表的なものの一つに、紡績機械の買い付けがあります。マンチェスター郊外にあった当時世界最大の紡績機械メーカー、プラット・ブラザーズ社を訪れ、紡績機械を120台購入する商談をまとめました。同時に、鹿児島で建設する紡績工場の設計と技術指導を行う技術者を鹿児島に派遣することで合意しました。

五代が紡績機械を購入したプラット・ブラザーズ社の本社建物。現在は貸しビルとなっている(イギリス・マンチェスター郊外)=筆者撮影

これをうけて7人の技術者が薩摩に派遣され、わが国初の洋式機械紡績工場が建設されました。紡績工場の周辺には、機械、木工、鋳物などの工場群が形成され、東洋一の工場地帯が形成されました。現在、工場は残っていませんが、イギリス人技術者の宿舎は現存しており、これも昨年に世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の一つとなっています。

プラット・ブラザーズ社から派遣された技術者の宿舎「鹿児島紡績所技師館」。昨年、世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の一つ(鹿児島市)=筆者撮影

五代は、イギリスの軍事力を含む国力の源泉は産業革命の成功にあったことを見抜いていたのです。「薩摩藩が力をつけるには経済力の強化が欠かせない」。紡績機械に着目したのは、そのような認識があったからでしょう。今日でいえば、成長戦略といった考え方です。これが、薩摩藩が明治維新を成し遂げる経済的基盤を作ったのです。

五代が欧州で残したもう一つの功績は、1867年開催のパリ万博に薩摩藩が出品することを契約したことでした。イギリスからフランスに渡り、有力貴族で来日経験もあったモンブラン伯爵と貿易商社設立で合意するとともに、同伯爵を代理人としてパリ万博に出品することを決めたのでした。開催まで1年半近くありましたので、薩摩藩は周到に準備することができました。

万博が開催された時には五代は帰国していましたが、実はこの万博には幕府も出品しました。ところが幕府代表団が会場に到着してみると、薩摩藩が独自に出品していることを知りびっくりします。「日本国を代表するのは幕府だけである」と抗議しますが、薩摩が出品を取りやめるはずもなく、幕府の国際的な権威は大いに低下し、逆に薩摩は国際的な存在感を高めることに成功しました。まさに五代は薩摩の国際的なPR戦略の仕掛け人となり、明治維新へのレールを敷いたわけです。

五代友厚の生涯(明治維新まで)