――そんな中、先代のお店が閉店してしまいます。閉店は突然のことだったのでしょうか?
いや、噂はありましたね。中本っていろいろうんちくを言いながら食べる人が多いんです。後輩連れてきて「まずはこれを頼めこれをこうしろ~」って言う人もいて。そういう人たちから聞こえてきてました。

実際、先代のおやじさんが1998年に店を畳んでしまった。そこから俺はどうしよう!! と困って、東京で辛いと評判のラーメン屋さん巡りをしました。でも、中本と同じように辛さをうたってるお店はあるんだけど、辛いだけとか、バランスが悪いとかで、中本と違うんだ。中本に代わるところは無かったんだよ。

で、「中本を継ぎたい」と思って、おやじさんに電話をかけた。当時の中本は一階が店、二階が住まいっていう昔ながらの中華料理屋で、店畳んだらおやじさんも引退して一軒家に造り変えるって聞いてたので、電話番号は同じだなと思って、幾度かかけてみたんです。おやじさんが年末に店畳んで、翌年の2月くらいかな。

電話をかけてみたらつながったので「ぜひともお会いしたいんです! お願いします!」って言った。あっちはもう俺の声で分かるよね。だって20年通ってたから。それで、「いいよ」って会ってくれた。

面と向かって、「俺自身こんなにはまったラーメン屋はありませんので、ぜひとも店を継がせてください!」って2時間くらい話して頭下げたかなぁ。「うんうん、うんうん」と熱く聞いてくれたんだけど、「うん、分かった。でもうちのラーメン屋はやめときな」ってあっさり断られてしまいました。「他のラーメン屋やんなよ。うちは大変だよ」と。

「2時間の説得もあっさり断られてしまいました」と語る白根氏

――会うところまでこぎつけたけれど、断られてしまったんですね。
今考えるとやっぱり調理に手間がかかるからというのもあるだろうし、中本は自分の代で閉めたかったらしいんです。おやじさんにはせがれもいたんだけど継がせる気は無くて、他の仕事をしてたので。で、先代は頑固なおやじさんだったんだよ。だからそういう風に言われてこれはダメだなと。

中本禁断症状が出てしまって、その後1、2カ月してまた電話しました。俺ももう3カ月くらい中本を食べてなかったから、「じゃあもう継ぐって話はいいです。食べさせてもらえませんか」と。

先代は「自分も好きで、家で食べる」って聞いてたので、絶対家でも作ってると思ったんです。だから「作ってる時でいいですから、俺の分も作ってもらえませんか。材料費も出しますから」って言ったら「そりゃああんたの分だけそういうわけにはいかないよ」って断られちゃった。正直ケチだな~、そのくらいいいじゃん! と思いましたよ(笑)。

とはいえ、断られたからガチャンって切るのも大人げないので、「じゃあラーメン屋ってどういうものなのか、ラーメン屋の話を教えてください」って言った。そうしたら「ああ、いいよ。酒飲めるか? 飲みに行こう」って返ってきてて、飲みに行くようになった。

何回か飲んでいるうちにまた色気が出てきて……。「これだけ親しくなったらいいんじゃないか、もう一回言ってみよう」と思って言ったらおやじさんは「う~ん……ちょっと考えてみる」という反応で、すぐ「NO」とは言われなかった。

次電話した時に「じゃあもう一回会うか」と言われて会って、「お前だったらいいよ」と許可がもらえたんです。もう、天にも昇るうれしさというか、人生の中でも相当うれしい瞬間だった。それから頭にあったのは、「ああ、また食べられる~~!!」って。自分で作れれば好きなだけ食べられるし、無くなっちゃったものが復活してくれるんですから。

――まさに「この世に無い」ってことですもんね。
そう。だから先代の店の閉店から1年ちょっと経った1店舗目の再オープンの時には、前の「中国料理 中本」から「蒙古タンメン中本」に名前は変えたけど、ものすごくお客さんが来ました。

――店名は先代がつけたものだと聞きました。
最初はかっこ悪いなって思ったけどね(笑)メニュー名が屋号なんだから……。寒い地方では生活の中に、辛い唐辛子料理が身体を暖めるためにある。っていうところから先代がメニューに蒙古ってつけたみたいです。先代は純粋な日本人ですが、メニューにも「蒙古」「樺太」「北極」とかを使っていた。あと、俺たちが若い頃は札幌味噌ラーメンも若干唐辛子が入ってました。ラーメンに唐辛子を入れるってアイデアは札幌からじゃないかなぁ。で、蒙古とか樺太、北極は札幌より北にあるから、もっと辛いという意味もあるようです。

辛さレベル10の「北極ラーメン」(830円・税込)

辛さレベル0の「冷し醤油タンメン」(780円・税込)

――オープンの日のお客さんの反応はいかがでしたか?
すごかったですよ。泣いてる人もいて、握手してきてくれた人も何人もいた。「あんたが白根さん? 復活させてくれたんだってね、ありがとう! 今日、食べられたよ!」って。そんな風に言われたらこっちもウルウルしちゃうよね。

――その方々にとっては「二度と食べられない」ものだったと考えると、喜びもひとしおだったのではないでしょうか。
そう、俺と同じことを思ってた人が何人もいたみたいです。「他も行ったんだけど、やっぱり中本しか無いよ」って、何人も握手された。今でもいますよ。「あなたがいなかったらね、俺らがこうやって食べることもできなかったんだもんね」って。そう言われると。いやいや俺もそうだったんですよ! って思っちゃう。

――先代の時から通っているお客さんが今も来ているんですね。
親子三代のお客さんもいるんです。先代が32年、俺が15年で都合47年くらいやってるからね。祖父、息子、お孫さんで来て「親子三代で中本来てるよ~。俺、あんたより古いよ!」って自慢されたりする(笑)。俺自身は先代がやってた30年中の20年通ってたんだけど、それよりもっと前から行ってたって。

――オープン日には行列もできていたとか。
100人くらい並んでましたね。しかも、朝から晩まで行列が絶えないから、「えらいもの継いじゃったな~こんなすごいんだ。俺や、俺らでやっていけるのかな」って、正直な話、俺が一番焦りました。「これが毎日続くんだ……」ってプレッシャーを感じた。

――店舗の漫画で拝見したんですが、シャッターにオープン情報を書かれたんですよね?
告知するお金も無いから、借りた店のシャッターに「中本復活! 2月中旬!」ってスプレーで殴り書きしたんです(笑)。まだインターネットも今みたいに普及していなかったから、それも宣伝になったみたい。あとは立て看板と、ハガキを出したかな。それで、人伝いに口コミで広がっていったようで、朝から行列が続いてた。それが今までつながっている。

本当にお客さんあっての商売。食べていただけるというのはありがたいことだから、お客様方々に感謝の気持ちを忘れず、味と接客でお客様に返そう! と、中本の会議の場では常々言ってます。


前編では、先代の中本に通っていた時代から、復活に至る経緯までを詳しく語ってもらった。次回中編では、実際にラーメンを作る際の「辛うま」を作り出すための調理工程や使用する唐辛子について、また現在セブン&アイ・ホールディングス・日清と製造し、販売しているカップめんについての開発秘話を聞いていく。