――監督の作品に最終的な意味を求めるのはナンセンスだと思うのですが、この作品を見た人にどんなことを感じて欲しいですか?
「いつも聞かれて困る質問なんですよね、それって(笑)。ただ、今回の作品で言うと、『他者との関係をどうするか』ということなんですよ、結局。『人間は他者との関係の中で自己が成立している』ということに気づいていない、それがつまり『自己の増殖』であると。なぜなら、相手がどんなに他人だとしても、必ず『そうであって欲しい』という自己の願望を投影した上での他人であるとなると、それは結局"他人"ではなく"俺"なんですよ」
――これから先の活動に関して、何か具体的なイメージはありますか。
「具体的なイメージがあったらこんなことになってないですよ(笑)。ただ、小説や絵画といった自己完結していくメディアよりも、映画やドラマのように他者と関わり他人の考え方が入ってくることでズレていき差が生じるメディアの方が自分には向いているんじゃないかとは思いますね。なぜなら僕自身、"ズレ"の中から発見がある方が面白いし、好きなんですよ」
――ところで、テレビバラエティーご出身の三木さんは今のテレビバラエティーについてどう思っていますか?
三木「昔に比べてずいぶん(外から)言われるようになりましたよね。僕らの頃の深夜番組なんて視聴率はお構いなしでしたし、『自分たちが第一の客かどうか』という目線で作っていたわけですよ、わがままなバブル世代は(笑)。でも、バブルがはじけ、制作費が減り、やがて視聴率を取らないといけないというシビアな問題になってそれが『相手がどう喜ぶか』に変わっていく。そこにコンプライアンスなどが関わってくると、さらに思い切ったことが出来なくなる……。実は産業って、訳の分からないモノを許容する余裕がないと衰退するんじゃないかと僕は思うんです」
――同じことがテレビにも言えるのではないかと。
「売れるモノ、人に褒められるモノだけを作るのではなく、一部の人にしか受けなかったり、批判が多く集中したりするモノも作る方が産業としては健全な気はしますね。今のテレビにはその余裕があまりない気がします。また、テクノロジーの発達というのも重要で、かつて巨大だったビデオテープがどんどん小さくなってスタジオでロケ素材を見るスタイルが定着し、非常に優秀なコメンテーターとして(ビート)たけしさんが絶大な人気を獲得したように、また、カメラの小型化によって『進め! 電波少年』という番組が登場したように、テレビにおいてはこれから先、新しく生まれるテクノロジーに対して最良の方法を見つけたチームが勝っていくんじゃないかなとは思います」
――では、ずばり、キーワードは?
「生放送とスイッチングによる『原点回帰』でしょうか。1991年の湾岸戦争で戦争の生中継をしたことで、テレビの中の作り物の映像ってあんまり受けなくなってしまった。けっこう大きな変わり目がそこにあったと僕は思います。インターネットでミニマムな中継がどんどん可能になっていく中で、テレビという巨大メディアがどう手を打ってくるのか興味がありますね」
――そんな中、三木監督自身はこれからもコツコツと独自の道を歩いていくということでしょうか。
「コツコツというかゲリラ戦というか、ただ単に大きな参謀本部に呼ばれない、というだけの話ですけどね。同時期に始めた監督や役者もどんどん出世してるのに、こっちはいまだにゲリラ戦やってますから(笑)」