「珍しさが強みになるはず」

『わ』店内。7坪・14席

早速物件探しを開始し、偶然「テナント募集」の貼り紙を見つける。駅から徒歩10分強、人通りも少ない場所で、7坪の家賃が10万5,000円(2002年当時)。周囲の人々には「高いからやめておけ」と言われたものの、念願の吉祥寺エリアだったことから契約しようと決意。この店が後の『わ』になるわけだが、この時点ではまだ業態すら決まっていなかった。

7坪のスケルトン状態の店舗を見た光山さんは「ホルモン焼きの店にしよう」と決意。出身地の大阪生野区では、日常的にホルモンを食べる習慣があり、自身も馴染みがあったからだ。しかし、当時の東京はというと、ホルモン焼きは一部の焼肉店で提供する程度で、ホルモン焼きの専門店は皆無に等しかった。さらに、もう1つの柱は「焼酎」に。焼酎は、その頃の大阪では既に人気を集めていたが、東京ではブーム到来前。「ホルモン焼きと焼酎。東京にはない珍しい店を出せば、お客さんはきっと来てくれる」と考えたのだ。

BSE騒動の中でのホルモン焼き店開業

しかし運悪く、世間はBSE騒動の真っ只中。焼肉店オーナーのほとんどが苦労している頃だった。普通ならここでくじけそうになるようなものだが、光山さんはこの状況を逆手に取る。焼肉店から客足が遠のき、その影響から大量の在庫を抱えてしまっていた肉屋と交渉し、良質の内臓肉を仕入れる独自のルートを確立したのだ。何事もあきらめず、夢のためにひたむき。光山さんのたくましさ、というか飲食店オーナーとしての成功の要因はここからも見て取れる。

さて、肝心のメニューだが、大阪のホルモン焼きはタレ味が基本。だが、「手間とお金をかけた老舗の味にはかなわない」とシンプルな塩味をベースにした。肉と焼酎の仕入れ先は、「ここだ! 」という業者に飛び込みで交渉。「小売はしていない」と門前払いされそうになるが、熱心にお願いし、ついに口説き落とした。肉も焼酎も仕入先が決まってホッとする中、実は大きな問題が立ちはだかっていた。「煙」の問題だ。

次回後編では、内装準備の話や『わ』開業資金の内訳、現在光山さんが募集しているFCオーナーについて紹介します。