前回のレポートで雑誌の「デジタル出版(Digital Publishing)」の概要とその制作フローについて簡単に紹介してきた。今回はツールの話から少し踏み込んで、コストや制作体制など実際の制作現場の様子やそこで生じる問題について考えてみる。走り始めたばかりの世界で、新しいクリエイティブに対する期待とその反響への不安の両面で揺れる出版社の現状が見えてくるはずだ。

デジタル出版進出における戸惑い

前回のレポートで写真と動画を組み合わせて制作フローを紹介したことで、現場がどのようなツールや素材を使ってコンテンツを用意し、実際にどのようにユーザーの手元へと届けられるかのおおよその雰囲気は伝わったはずだ。こうした動画を使った解説は紙の雑誌では難しく、昔月刊誌で編集者をやっていた筆者がフローチャートやレイアウトを駆使していかにわかりやすく読者に伝えるかを悩んでいたことが、よりわかりやすい形で伝えられるようになったものだと感じている。筆者は後に技術系Webサイトの立ち上げに携わったが、2000年当時はまだナローバンド全盛のころで掲載する画像ファイルもひたすら圧縮を目指していたほどで、動画の利用などは夢のまた夢だった。現在そのサイトではUstreamによる動画配信で技術解説を行っているほどで、時代の変化を感じさせる。

同じことはデジタル出版の現場でもいえるだろう。これまで紙の雑誌でレイアウトや編集を行っていたスタッフが、ある日突然デジタル出版の世界に放り出されてiPad用アプリを制作する。こうした現場の心境はどうなのだろうか? 「新しいメディアに挑戦できることに、現場は非常に沸き上がっている。(iPadなどを使った)デジタル出版は、これまでの紙の雑誌では実現できなかったことがいろいろ可能になるからだ」と説明するのは米Conde Nastデジタルマガジン開発担当エグゼクティブディレクターでWired MagazineクリエイティブディレクターのScott Dadich氏だ。同氏は前回も紹介したWired Magazine for iPadのディレクションを担当しており、米Adobe Systemsのデジタルパブリッシング部門製品管理ディレクターZeke Koch氏との共同作業でAdobe Digital Publishing Suiteにおける制作フローを作り上げた。もともとWired Magazineのデジタル版はAdobe AIRベースで構築されていたものだが、そこでのノウハウを基にiPad向けのアプリにコンテンツを転用したという経歴がある。

紙からデジタルへの変革の中で制作現場に戸惑いはないのか、そしてエディションごとに制作部が分かれているのかという質問に対し、Dadich氏は「すべて同じ編集部内で作業が行われており、紙版とデジタル版はすべて同じ作業工程の中で制作されている。戸惑いはないのかという話だが、そういった意味ではすでに編集部はWeb版の制作も行っており、紙、Web、デジタル出版とその流れの中で新たなメディアへと進出しただけといえる」と答えている。またデジタル出版展開において、紙とは別に制作のための追加人員や素材集めのためのコストがかかるかという質問に対しては「確かに紙の出版のみよりはコストがかかるが、同じコンテンツで紙とデジタル出版の制作を同時進行させており、その意味では制作全体である程度コストが吸収できていると考えている。それよりも新たな収益チャンスというメリットのほうが大きいだろう」と説明する。以前に米Hearst MagazineがiPad向けのデジタル版マガジンアプリを出すにあたって、紙版よりも単価を高くする理由として「制作コストの増加」を挙げていたことを紹介したが、今回のWiredのケースとは異なる考え方のようだ。

米Conde Nastデジタルマガジン開発担当エグゼクティブディレクターでWired MagazineクリエイティブディレクターのScott Dadich氏

米Martha Stewart Living Omnimedia (MSLO)のチーフクリエイティブオフィサー(CCO)Gael Towey氏

実際、制作側もデジタル出版を想定した取材や記事作りをすでに行っている。Adobe MAXの基調講演でMartha Stewart本人が登場して話題になった「Living Magazine」のデジタル版だが、米Martha Stewart Living Omnimedia (MSLO)のチーフクリエイティブオフィサー(CCO)Gael Towey氏はL、ivingデジタル版の特集の1つであるアラスカの自然巡りの話では、現地取材をすると同時に、デジタル版に必要なパノラマ写真や動画などをすべてこの段階で撮影し、後から編集で紙版とデジタル版という形で調整しているという。こうした大掛かりな取材は現状のデジタル版やWeb版のみの収支ではなかなか難しいが、現行の紙版の予算も合わせ、全体で素材やコンテンツを共有することで実現できているといえる。共通の素材を複数のメディアに同時展開することで収益機会も拡大するわけだ。中小出版や売上の少ない雑誌ではなかなか厳しいと思うが、初期のデジタル出版を成功させるヒントの1つだといえるかもしれない。

今回の一連の話の中で、最も重要だといえるキーワードが「露出機会」だ。露出機会の増大がデジタル出版におけるポイントの1つだといえる……つづきを読む