デジタル版の登場は販売機会を増やす
今回の一連の話の中で、最も重要だといえるキーワードが「露出機会」だ。露出機会の増大がデジタル出版におけるポイントの1つだといえる。現場の声としては作業が増える半面、「新しいことにいろいろチャレンジできる」というデザイナーや編集者の欲求や好奇心、自己満足ともいえる部分を満足させるのがモチベーションとなっているが、出版社の経営陣や営業サイドからいえば露出機会の増大が部数増につながり、ひいては広告収入やアピール力の増加につながるという狙いがある。
デジタル出版アプリの初動データは、Advertising Age (AdAge)の10月22日付けの記事に詳しい。例えばiPad版アプリの「Popular Science+」の場合、4~7月号を通しての平均販売本数が1万4,034本だったという。これが多いか少ないかは微妙なラインだが、AdAgeによれば紙版の販売冊数平均が11万5101冊ということで、およそ12%程度ということになる。またWired Magazineは初期の注目度が高かったこともあり、10万5,000以上のダウンロードを達成したという。「Wired Magazine for iPad」は専用リーダーで、追加のコンテンツはアプリ内購入(In-App Purchase)を行う形式のため、ここで追加購入を行ったユーザーはリピーターということになる(最新号が含まれたアプリ本体が4.99ドルで、追加コンテンツは3.99ドル)。Wiredの場合、7月号が3万1,000、8月号が2万8,000、9月号が3万2,000の販売本数で、これはおよそ紙版の37%程度にあたるという話だ。アプリ提供の効果はそれなりあったとみればいいだろう。ただAdAgeによれば、こうした科学技術系以外の雑誌は紙版に占めるデジタル版以外の割合が1桁未満のケースもあるということで、媒体特性による部分も大きいようだ。
デジタル版の提供で既存の紙ベースの雑誌部数がどれだけ減るかという正確なデータはないが、現状で既存の雑誌部数はさほど影響を受けておらず、むしろデジタル版の提供で新規需要が増えることに期待する面が大きいようだ。その1つはオンラインストアを通して流通の壁を越えられることで、特に海外市場などこれまで展開が難しかった場所にも比較的容易にリーチできるメリットがある。前日のDadich氏とTowey氏も「海外への売り込みは新たなチャンスだ。実際、購入者の一部は海外からのものだった」と明かす。
こうしたコンテンツの拡散具合を示すデータがある。米Associated Press (AP通信)は米国のメディアが出資し合って活動を続けている通信社で、日本でいう共同通信にあたる組織だ。そのビジネスの根幹は記事を提携メディア各社に配信することで得られる配信収入だが、既存メディアが収益減で次々と倒産あるいは事業を縮小するなか、このままではAPのビジネスも縮小していくことになる。配信メディアを持たないAPだが、最近ではWebサイトでの記事配信も行っており(Google Newsの記事が有名だろう)、そうした新分野での記事配信や、PCやモバイル向けの記事配信アプリを提供して、そこで広告収入を得るビジネスを展開している。またこのモバイルアプリの有料化も計画しており、これまでの通信社のビジネスから一歩踏み出した新しい試みを続けている。今年のAdobe MAXの個別セッションでは、このAP通信の「Mobile App」サービスに関する最新の統計が紹介されていた。
現状のデジタル出版がiPadやiPhone、そして今後登場するタブレットデバイスをターゲットにしているのに対し、APのMobile Appは各社携帯プラットフォーム向けのアプリ、ウィジェット、そしてFlashアプリといった各種の形式を用意している。レイアウトの再現性がそれほど重視されず、テキストと写真中心のメディアならではかもしれない。各国とストア別のアプリ配信状況がデータでまとめられており、国別では米国のダウンロード数が突出しているものの、欧州からアジアまで幅広い地域で利用されていることがわかる。従来の通信社ビジネスだけでは、直接はリーチできない市場だ。またストアもiTunesだけでなく、NokiaのOvi Storeや大手アプリ配信ストアのGetjarなどが多くを占めており、さらにiTunesの配信数よりも多い。また今年はワールドカップが南アフリカで開催されたが、こうした特集系の専用アプリも人気のようで、かなり利用されたという。
真のユーザー体験は提供できているのか?
今回いろいろ取材を通してデジタル出版の現状を見てきて、デザイナーや編集者の自己満足ではないかと考えていたそのリッチな仕掛けの数々が、既存の紙のメディアにとらわれない新しいチャレンジだという熱意が伝わってきた。印象的なのはAdobeでDigital Publishing Suiteを担当するZeke Koch氏のコメントで「コンテンツのサイズが大きく、無駄にリッチな機能を詰め込んでいるのではないかという意見を聞くが、1時間のTVドラマのエピソードをダウンロードするのと同等かそれ以下の容量で雑誌コンテンツが入手でき、さらに1時間以上楽しめるじゃないか。表現を含め映画やドラマでは許されることが、なんで雑誌コンテンツでは批判されるのか」というのだ。
例えば初期のWired Magazineはリッチなコンテンツの数々と同時に、500MB以上の容量があったことも話題になった。米国ではナローバンド環境も多く、この容量では1本のダウンロードに1時間以上かかることもあり、モバイル環境で利用することはまず無理だろう。だがKoch氏によれば「Wiredの2号目は250MB程度の容量になり、その次の号ではさらに容量が減っている。技術的にこなれてくれば、ある程度の容量で抑えることが可能だろう」という。テキストや写真を楽しめればいいという意見もあるが、それよりも「iPadなどのデバイスならではのコンテンツの楽しみ方を体験してほしい」というのが同氏の考え方だ。一方でまだ試験的な部分も多く、ユーザーの反響を見つつ一緒にコンテンツを作り上げていく形になるという。こうしたユーザーからのフィードバックを収集しやすいというのも、従来の紙のメディアではなかった特徴だという。
紙という制約が取り払われたことで、従来の出版社が新たな可能性を模索しているのが現在のデジタル出版の状況だといえるだろう。ビジネス的にはまだ未知数な部分が大きいが、資金力に比較的余裕のある大手を中心に紙とデジタル版の両立を進めて相互補完していくというスタイルになるとみられる。