井筒 : 「本当は15歳以下の中学生、少なくとも思慮分別がついてきた中学3年生くらいに観せたかったけどね。子どもであればあるほど、観たら『じゃ、オレらはどうしていこう』って考えたくなると思うんですよ。だから、残念なんですけどね。映倫は暴力描写のリアルさを問題にするんですよ。同じストーリーでもファッショナブルに暴力を描写してたらR指定は付かないけど、『ヒーローショー』はリアルすぎて、痛みが伝わりすぎるからね。ま、仕方ない。お裁きに従うしかないですから。これも"時代"ですよ(笑)」

裏返せば、R-15指定は作品の完成度の高さの証明ともいえる。そう伝えると、監督は「名誉ある烙印やな」と言って、照れ笑いを浮かべた。

今は映画を完全に商品として扱ってる

井筒作品はいつも挑戦作。リスキーな問題にも正面を切って挑み続ける。それらはまずテレビドラマとしては成立しないものだ。映画だからできるもの――それを追い続ける監督の姿勢からは、映画そのものや映画界に対する強い思いを感じる。

井筒 : 「この間もタクシーに乗ったら、前の会社が倒産したという運転手から『監督、今度『ヒーローショー』って映画をやるんだって? キッツい映画らしいじゃない。胸騒ぎがして観たいんだよね』って言われたんですよ。バーチャルな時代が長く続いているから、余計リアルを追い求めたいというのが大衆の心理だし、それを追うべきだというのが今の映画界に対する自分の思いでもあるんですよ。なのに、今の映画界は安っぽい予定調和の子ども用映画が多すぎる」

そこには、テレビ局がビジネスとして映画に参入している昨今の流れも少なからず影響しているようだ。

井筒 : 「映画を完全に商品として扱ってるでしょ。これだけバーゲンをやると、映画の格調がなくなって、"人生で出会う映画"が見つけられなくなっちゃうんですよ。僕、映画は芸能だと思うんです。芸能とは芸術でも娯楽でもない、その両方を視野に入れたもの。芸能はもともと河原乞食が鴨川の河原でストリップみたいなことをして、都の様子を伝えていたところから始まってるんですよ。それを観た旅人たちが『あいつら、やっとんなぁ』って、自分たちの苦を和らげていた。つまり、芸能は人間の苦しみを和らげてくれるものなんですよ。社会のものをスッとすくい出して、そこから起こる笑いや恐怖……リアルな人生を見せ付けられて、自分はどうなのかと考えさせられることで、自分の中にある苦が和らぐ。それが僕ら"芸能者"がやる芸能、そして映画の基本やと思うんです」

井筒監督は今後もそんな芸能=映画を追い詰めたいという。

井筒 : 「やりたい題材はいっぱいありますよ。暴力とは何ぞや、暴力の衝動とは何ぞや、エロスの要求とは何ぞや。最近の映画界はバイオレンスとエロスが本当になくなったんだけど、時代の流れの中でエロスが望まれるならエロスをやりたい。やっぱり、時代への合わせ方がカギでしょうね。映画は時代の深層といかにマッチするかが重要ですから。時代の意識はどうでもいいんですよ。本当は何を思い、何を求めてるのか。そこを考慮した上で今浮かび上がる題材は、芸能者の生き様かな。芸能者というのは切磋琢磨して、ビタ銭をもらってる。その姿を観た時に『オレも仕事しよう』と同調してくれる人がいるんじゃないか、と」

もしやその企画、次回作として既に動き出している、なんてことはあるのか?

井筒 : 「始まりはしてたり、してなかったりしてるんだけど……今はそれ以上話せることはないわ(笑)」

映画『ヒーローショー』は角川シネマ新宿ほかで全国公開中。