祖先はモンラッシェの名付け親?

「ドメーヌ・ジャン・シャルトロン」 / ジャン・ミシェル・シャルトロン氏(ピュリニー・モンラッシェ村)

ジャン・ミシェル・シャルトロン氏

先のヴォーヌ・ロマネ村が赤ワインの横綱だとすれば、白ワインの横綱は間違いなくモンラッシェだろう。ただしモンラッシェと名のつくワインはピュリニー・モンラッシェ村とシャサーニュ・モンラッシェ村から産出される。シャサーニュ・モンラッシェ村のほうが若干だが規模は大きく、赤ワインも3割弱造っている。対してピュリニー・モンラッシェはほとんどが白ワインとなる。

ドメーヌ・ジャン・シャルトロンは、そのピュリニー・モンラッシェ村で1859年からワインを造り続ける老舗のドメーヌである。1984年にシャルトロン・トレビュシェとしてネゴシャンも始めるが2004年に解消。ドメーヌだけで再出発、現在は5代目のジャン・ミシェル・シャルトロン氏が当主である。

ブルゴーニュの畑の特徴として、畑の周りをぐるりと低い石垣(Clos)で囲まれている箇所が随所で見られる。そしてそのクロの中の畑は複数の造り手が分割して所有しているのが通常なのだか、まれに1つの所有者で占められているクロも存在する(ロマネ・コンティはこの代表例)。このようなクロをモノポールと呼ぶが、彼の畑の最高峰であるシュヴァリエ・モンラッシェもモノポール1つだ。その自慢の畑に案内されたときはちょうど剪定した枝を焼いている最中。それは冬のブルゴーニュではよくある光景らしいが、乾いた枝を焼く煙たい匂いも郷愁を誘い、まるでミレーの名画「落穂拾い」を4次元の空間で見ているかのようだった。あ、落穂拾いは焼いてはいなかったか。

シュヴァリエ・モンラッシェ

剪定した枝を焼いている光景はまるで「落穂拾い」のよう

ジャンは畑に立って、「ここがピュリニー・モンラッシェ村の4つのグラン・クリュ(シュヴァリエ・モンラッシェ、モンラッシェ、バタール・モンラッシェ、ビアンヴニュ・バタール・モンラッシェ)、ここから向こうが17のプルミエ・クリュ、この道路から下は村名の畑……」と指をさしながら学校の先生のように教えてくれる。それもそのはずで、ジャン曰く、モンラッシェという名は1870年頃、彼の祖父の祖父がこの村の村長だった時代につけたそうだ。それまではただのピュリニー村だったらしい。その後、彼のドメーヌへ戻る間に道行く人全員と挨拶を交わしていくジャン。彼自身も人口約470人であるこの村の村会議員なのであった。

「ドメーヌ・ジャン・シャルトロン」