CG技術の夜明け前

当初、杉山氏は既存の大学内にマルチメディア学科をつくることを目指したが、審査などの様々な手続きを行うと、開設するまでに最低でも4年かかってしまうことが判明する。それでは、最初の卒業生を送り出す頃には、時代の流れに取り残されてしまうと焦りを感じた杉山氏は、自分で学校をつくることを決意。1993年頃に企画を始め、1994年10月3日、デジタルハリウッド「THE MULTIMEDIA SCHOOL」を開校した。

「UNIXの世界でMOSAICという初期のWebブラウザが登場し、これが間もなくパソコンにもやってくる実感がありました。また、ソニーやセガが家庭用ゲーム機(初代プレイステーションとセガサターンのこと)を作っていて、『バーチャファイター』や『RIDGE RACER』など、話題のゲームソフトが家庭に入ってきそうなこともわかっていました。もうCG技術の夜明け前という雰囲気が漂っていたんです。それらが世に出てきた後に開校したら"なるほどね"と言われるだけなので、なんとか夜明け前に開校したいと思いました

そこで、当初予定していた1995年4月の開校を半年早めて1994年10月に開校したのだった。

お茶の水にあるデジタルハリウッド東京本校の様子

開校した日は、同時に母体であるデジタルハリウッド株式会社が創立した日でもあった。当初の講義では「Photoshop」や「Illustrator」、CD-ROMコンテンツ製作に使う「Director」といったソフトの使い方や、当時コンテンツ開発唯一のプラットフォームであったMacの使い方の解説が中心。入学してくる学生の殆どが男性だろうと予想していたが、意外にも、開校当時の生徒の9割が女性、しかも平均年齢は29歳だった。

「生徒たちは、みんな自分たちで学費を払っているモチベーションの高い人たちでした。勤め先の同期の男性はいい役職についているのに、自分はいつまでも同じような仕事をやらされている。当時はまだ男女雇用機会均等法が施行される前で、男女でまったくキャリアパスが違っていたので、"手に職を付けるぞ"という意気込みでOLを辞めてくる女性が多かったんです」

ただし、当時はMacやPhotoshtopが使えるというだけで多くの企業から誘われてしまうため、それらを覚えると、すぐに「就職が決まりました」と辞めていく生徒が多かったという。