会場に入ると最初に、東、西、南、北のネオン管が目に飛び込んでくる。『東西南北』は実際の方角にあわせて展示されているもので、漢字を使ったこの作品から、中国人を父に持つ彼女の東洋への関心の高さを示している。東洋に対する思いは次の作品『視線の基準』にも見られる。中国の「纏足」に興味を持つ彼女は、纏足と「盆栽」のイメージを重ね合わせたのか、木の根を布で包み、縛っている。
さらにこの「盆栽」は支柱で高さの調節ができ、展示する場所に応じて高さを変えている。これはその場所の標準的な高さ="視線の基準"にあわせるようになっている。この"視線の基準"は身体的な高さだけではなく、その地域や社会にある"ものの見方の基準"=価値観に一定の基準がある事も示している。ちなみに、彼女が盆栽にどの程度の興味があるのかはわからないが、ここで使っている植物は近くのホームセンターで探して来たものだそうだ。
東西南北 / Dong Xi Nan Bei(E、W、S、N) 2006 / ネオン管 Courtesy Peter Blum Gallery, New York & AD Gallery, Athens |
視線の基準 / standard eye level 2006 / 鉄、植物、布、蛍光テープ Courtesy Peter Blum Gallery, New York |
音楽大学に学んだ彼女は演奏家の道には進まず、アートに専念してビデオや写真を発表してきた。ここ数年は、『平均律クラヴィーア曲集』のように、音楽的な関心をふまえた作品を発表してきている。指を固定されたままバッハを弾くこの映像作品は、音楽を習熟する事の苦痛と喜びを連想させる。『ヤドリギ楽譜』は旅の風景のような連続するヤドリギの映像が、ショスタコヴィッチのチェロ曲とともに流れると、ヤドリギの枝が音符のように見えてくる不思議な作品だ。
彼女の作品のおもしろさは、こうした具体的にクラシック音楽が流れる作品だけではない。『語られた多くの言葉』は、天使が掲げる盆からインクが滴り落ち、下の池に溜まったインクはまた、盆から滴り落ち、それを繰り返すという作品。文字・言葉の隠喩であるインクが循環する様は文学へのオマージュであり、記憶や記録への関心を呼び覚ますという意味を持つのだが、実際に作品を目の当たりにすると、インクが滴る、心地よいその音に心を奪われてしまう。『Snowに関する1000の言葉』もまた音に思い入れた作品だ。ペルシャ絨毯のような模様が刻まれた床に、大きな3つのスピーカーが聳えている。そこからは、レコードに針を落として音楽が流れてくる前に聞こえる「Snow」と呼ばれる、"音なき音"が流れてくる。
この他にも、金属製の管が壁を貫いていて、一方はただの穴(『通気口』)、もう一方は耳の形の彫刻(『(静聴する)MP3の耳』)が付いていて、ふたつの部屋を空気が行き来している。「聞く」という行為そのものを視覚化した対になった作品。こうした東西の文化的なバックグラウンドを持ち、音楽とアートの間を行き来し、揺れ動く彼女の作家としてのあり方は、不安定に見えたり、見るものによっては異なる印象を持たれるのかもしれない。しかし、それこそ、彼女の作家としての他とは異なる存在感と言える。
5点の猫の写真が並んでいて、その反対側にはヘッドフォンと猫の写真が表示された小さなディスプレイが付いた木のいすがある。『不眠症の治療』だ。ヘッドフォンに耳を当てると「ごろごろ」と猫が喉を鳴らす音が聞こえてくる。音には写真に対応した5匹の猫の喉の音があり、猫にも個性がある事に気付かされる。『それぞれのジャガイモの自我』は2006年に越後妻有アートリエンナーレに滞在した際に、地元の陶芸家とともに制作した陶の作品。ジャガイモの芽の形はさまざまで、彼女はここでも個性というものに注目している。
『冷蔵庫』は扉の閉じた状態で庫内のあかりが点灯するという、システムが逆になっている作品。哲学的だが、気づいてしまうとクスクス笑ってしまう。ヤドリギも猫もジャガイモもそうだ。彼女の作品にはそんないたずらっぽいユーモアが隠されている。詩的で知性に溢れていながら、独特のユーモアが共存している。そんなところにこそ、ツェ・スーメイのアイデンティティがあるように感じる。