腕木式信号機の下を通過する貴重な体験!
以前は交換設備のあった津軽飯詰。ここにはトム1形の貨車が3両、留置されていた。1929年(昭和4)の製造である。
トム1、トム2、トム3 |
林の中にある毘沙門 |
津軽飯詰を出ると、列車は林の中に入り毘沙門。このあたりの線路際の木々は、かつて鉄道林として植樹されたものだそうだ。鉄道林を持つ私鉄は全国でもここだけだということで、近年注目されはじめた。詳細はまだ不明なので、研究が待たれる。
林を抜け、街が近づくと嘉瀬に到着。ここには、テレビ番組の企画でペイントされた車両が留置されていた。
次は、太宰治の出身地として知られる沿線随一の街、金木駅である。嘉瀬を出ると、筆者は少し緊張した。というのは、金木駅到着の直前には、腕木式信号機があるからだ。「下がっている(進行可能を示す)腕木式信号機の下を列車で通る」というのは、タイムマシンに乗るような一大イベント。是非写真に収めたい。進行方向の車窓にじっと目を凝らすと、やがて電柱とは明らかに違う、腕木式信号機の赤い羽根が見えて来た!
金木駅では、反対方向からの列車との行き違いのため、しばらく停車する。ここでは大変珍しい、タブレットとスタフの交換が見られる。これらは列車の通行手形である「通票」で、さきほどの腕木式信号機と連動し、列車の正しい運行を守っているのだ。
前代ストーブ列車は、鉄道博物館にお里帰り
次の芦野公園駅は、太宰治の紀行文『津軽』にも登場した駅で、当時の駅舎は喫茶室として使われている。その向かい側、線路脇の草むらは、現在は鉄道博物館に収蔵されている「オハ31 26」がかつて留置されていた場所だ。ストーブ列車として長く愛されたその客車は、昭和初期の製造。初期の半鋼製客車として歴史的価値を認められたのである。津軽鉄道の女性スタッフが「国鉄から譲り受けた客車だったから、お嫁入りじゃなくてお里帰りしたのよ」とまるで娘のことのように話していたのが印象的だった。
搬出に当たっては、駅の桜の木を切らないように、車体を半分に切断したというエピソードがある。芦野公園駅は、津軽を代表する桜の名所としても愛されているのだ。切断の跡は、鉄道博物館に展示された車体の中央部にあるので、是非確認してほしい。
そして、北の終着駅へ
続いて停車する川倉は、恐山と並ぶ霊場として知られる「川倉地蔵尊」の最寄り駅である。そして木造の駅舍がある大沢内と列車は進行し、次は珍駅名の「ふこうだ」。漢字で書けば「深郷田」で、むしろのんびりした幸せそうなところだった。
深郷田を出ると広大な津軽平野はとぎれる。カーブして丘を上れば、終点の津軽中里駅だ。北の終着駅は、入れ替えのための狭いヤードがあるだけと至ってシンプルであった。以前は、駅に隣接したスーパーマーケットがあったのだが、6月で閉店してしまったそうだ。ここでも郊外化が顕著なようだ。
12月からは、津軽の冬の風物詩として知られる「ストーブ列車」の運行が始まっている。雪化粧したこれらの留置車両や駅舎を、客車の木枠の車窓から眺めるのは格別の趣きがある。是非一度、津軽鉄道に足を運んでもらいたい。