出港30分前の午前9時30分、甲板にけたたましく銅鑼の音が響き渡る。「ドンドンドンドーン」とリズミカルに銅鑼を打ち鳴らすのは、元羊蹄丸乗組員の森栄蔵さん(80)。「どの船にも1個か2個は銅鑼があって、寝台係が鳴らすことになっていました」と当時を振り返る。銅鑼を打ち鳴らして歩くのは甲板部分。雨が降っていても鳴らすのかと尋ねたら「銅鑼を鳴らすのには航海の安全を願う意味があるようですよ。雨が降っていても鳴らして歩きます」とのこと。本来ならしばらく鳴らして終わりなのだが、この日は連絡船100年の記念日ということでテレビ局の撮影も殺到。「もう一回お願いします」のリクエストが相次ぎ、必要以上に鳴らしてしまったのもサービスのうち。
さて、出港30分前の銅鑼が打ち終えられると船橋はにわかにあわただしくなる。操舵機器と向き合う航海士は通信機器でエンジンルームなど各部署と連絡を取り合い、出港に当たってのチェックを行う。
「舵よろしいです」「エンジン状態よろしいです」と次々に寄せられる状況報告。
それを受けて船長は「レーダーでチェック」と指示。別の船員がすかさず連絡船周囲の状況をチェックし「ドックの方から300トンのタンカーが来ます」「七重浜(ななえはま)からフェリー出港します」と報告。それにかぶさるように「貨車作業終了しました」の報告が船橋に流れる。
「ドックから出たタンカー中央埠頭に向かっています」とレーダーでのチェックを行っていた船員。「港内航路異常ありません」との航海士の声が船橋に響き渡る。出港時刻が迫る中「自動車積み込み終了しました」との報告が船橋に伝わる。
出港5分前、再び甲板で銅鑼が鳴り響く。それを合図にしたかのように航海士はドライブプロペラのボタンをオンにする。徐々に緊張が高まる船橋。「長声一発」の声と共に函館の空に100年目の汽笛が吸い込まれていく。
100年前に最初の青函連絡船が出港した午前10時、青函連絡船摩周丸"出港"。船長は船橋の一番前のガラスの前に立ち、角度などを次々に指示する。間髪入れずに指示は復唱される。出港直前から出港後しばらくは、船橋に静寂が訪れる暇はない。
緊迫した時間は、船長の「これで模擬出港は終わりです」との言葉で突如終わりを迎えた。それと共に船橋で沸き上がる拍手。本物を見た、という感慨にあふれているような温かな拍手だった。
この日船長役を務めたのは、山内弘さん(73)。1988年の摩周丸最後の航海で船長を務めた連絡船OBだ。100年目の模擬出港について尋ねると「現役時代に戻ったようで緊張しながら航海をしました。当時の仲間ともこうして再び会うことができ、思い出がよみがえってくるようです」と話してくれた。
「洞爺丸事故があって、国鉄は世界中を研究して沈まない船の技術を連絡船に投入したんです。だから、私たちは絶対に事故を起こしてはいけない、沈めてはいけないと思っていました」と山内さん。「最後の航海を終えたら少しはホロッと来るのかなと思っていましたが、そういうのは全然ありませんでした。とにかく安全に船を着けて、終わり。無事に安全にという思いだけです。そういう思いで乗組員一同結束してやってきました」と語る顔は、まさしく多くの命を預かる船長のそれだった。
この日の記念イベントには北海道各地や東京からも鉄道ファンらが訪れ、盛んに写真を撮って楽しんでいた。そのうちの1人で函館市在住の男性(23)は「自分は現役時代の連絡船に乗ったことはないが、模擬とはいえ迫力があった。きっと今のフェリーの乗組員などにはできないことだと思う。ぜひこの技術を継承してもらいたい」と話していた。
船内では自分の名前をモールス符号で打ち出してくれるサービスや郵便物への記念消印押印や復刻切符の販売が行われて人気を集めていた。
模擬出港実演の後は場所を移して「かたふり会(船員言葉で雑談の意)」が行われ、当時の船員や乗組員・鉄道ファンらが一緒になって当時の思い出話や摩周丸の今後の活用法などについて話し合っていた。
4月から青函連絡船記念館摩周丸の指定管理者となるNPO法人語りつぐ青函連絡船の会では「展示物の見直しや就航当時の客室などの再現、季節に合わせた展示などの工夫をして貴重な産業遺産である青函連絡船を存続させていきたい」としている。