総務省の放送・通信行政は「情報通信委員会」に
――確かに、ほとんどの事業者がコンテンツの規制へ懸念を表明しています。
コンテンツの規制は、国がやるべきことではありません。放送・通信行政を担っていた旧郵政省は省庁再編で自治省などと一緒になって総務省となりましたが、巨大省庁となった同省の中では、放送・通信行政は今や極めて専門性の高い特殊領域です。従って、通信・放送行政は、公正取引委員会などと同格の行政委員会として独立させた「情報通信委員会」が行っていくべきでしょう。
あるいは、ドイツでは放送行政に連邦政府は関与せず、権限を各州政府に委ねていますが、日本もこれにならい、地方分権の一環として道州制移行後の道州などに権限を委譲してもいいかもしれません。現在でも日本国内に9つの電波管理局がありますが、ここに監督権限を移すのも1つの案だと思います。
また、中間取りまとめ案において、コンテンツの社会的影響力を基準としてメディア分類を行うというのは、非常に危険な考え方だと言えます。一旦コンテンツを審査する体制が築かれれば、新聞や雑誌などの印刷媒体が提供するネットコンテンツも規制の対象ということになり、事実上こうした印刷メディアにも規制が波及していく可能性が高くなります。そういう意味では、今回の中間取りまとめ案にコンテンツ規制が盛り込まれたのは、印刷媒体をも規制の対象にしようという意図があると思われても仕方がない面があります。
後でも述べますが、コンテンツの規制は、現在よりも範囲を限定した放送コンテンツに対し、現在のように業界の自主基準で行っているものだけが許容範囲です。そのほかのコンテンツに対しては絶対規制をするべきではありません。
「ニコニコ動画」や「YouTube」も規制の可能性
――コンテンツレイヤーにおけるメディア分類で、日本民間放送連盟は「放送」という理念、言葉を使うべきだと主張しています。
私も、今回の新法制案の中でなぜ放送という言葉を使わないのか疑問です。放送というのは通信という概念の中の一類型なのですが、(1)受信者が多く端末を設置すれば簡単に受信できる、(2)同時同報性がある、(3)情報の伝達が一過性のものである、などの特徴があり、極めて影響力の高いメディアなので、「放送」とされているのです。だからこそ、放送コンテンツに対しては、現在でも放送法に基づいて自主的な規制が求められているのです。放送という名称をなくし、社会的影響力の有無だけで特別メディアサービスとした場合、「ニコニコ動画」や「YouTube」も、社会的影響力があるというだけの理由で同サービスに組み入れられてしまい、規制の対象になってしまう可能性もあります。
実は放送という言葉は、拡大解釈されてきた歴史があります。この歴史の中で、有料の専門チャンネルやWOWWOW、CATVなども放送とされてきましたが、これらを何百万、何千万の視聴者がいる地上波と同じ放送とするかは意見が分かれるところです。一部の難視聴地域のCATV「放送」事業者では、視聴者が数百世帯に限られているにもかかわらず、自主放送が含まれているために、地上波の放送局と同じような番組審議会などを設けるといった、過剰な対応をせざるを得ない例も見られます。
ドイツでは、通信(伝送設備)、テレサービス(公然通信)、メディアサービス、放送という区分けがなされ、放送を他と明確に分けています。今回の中間取りまとめ案は、放送・通信の仕組みをドイツに近づけようとしており、それならば、放送という名称を使い、明確な位置づけをすべきです。
私個人の考えでは、放送の定義として、「見るために契約が必要でない場合は放送、必要な場合は放送ではない」、という区分けが合理的だと思います。例えば、Gyaoは無料ですが、契約が必要なので放送ではない、などのように分類するのです。
そういう意味では、社会的影響力によって、特別メディアサービス、一般メディアサービス、公然通信と分類するのはナンセンスです。その判断を誰がするのか分からないし、恣意的な判断にならざるをえないでしょう。無料で放送の要件を満たすメディアは「放送」、無料で放送の要件を満たさない場合は「公然通信」、有料で視聴するために契約が必要なのは「メディアサービス」とし、コンテンツの内容規制は放送における自主規制のみありうる、とすべきではないでしょうか。放送という言葉を改めて定義し直し、全体の方向性をきちんと決めることが、今後の議論に求められるのではないでしょうか。