『マッハGoGoGo』は、1967年(昭和42年)に放送が開始されたタツノコプロ制作のテレビアニメーションである。国内で繰り返し再放送されたのをはじめ、海外にも輸出された。特にアメリカでは、『Speed Racer』のタイトルで放送されて人気を博し、2008年公開の予定でハリウッドで実写映画化されることが決定している。国内でも、Yahoo!動画において2007年10月31日まで無料配信中であり、さらに、パチンコ・スロット機がリリースされるなど、その人気は、衰えることを知らない。その『マッハGoGoGo』が、この4月2日に放送開始40周年を迎えたことを記念して、当時、この作品の制作に携わった関係者の方々へのインタビューを行った。

第1回目の今回は、この作品で総監督を務めたアニメ演出家の笹川ひろし氏にお話をうかがった。氏は、1936年7月9日生まれ。いわゆる、第1期タツノコ黄金期に同プロを支えた重鎮のお一人。日本のテレビアニメ黎明期より、一貫してアニメ演出家として活躍。『ヤッターマン』をはじめとする、タイムボカンシリーズの生みの親である。また、『鉄人28号 白昼の残月』の今川泰宏氏や『攻殻機動隊』の押井守氏など、数々の人材を育成したことでも知られる。

『マッハGoGoGo』制作秘話

笹川ひろし(ささがわ ひろし)。タツノコプロ創立メンバーのひとり。演出家として『マッハGoGoGo』やタイムボカンシリーズなど、数え切れないほどの代表作をもつ

――笹川さんは、どちらのご出身ですか?

「福島県のですね、会津若松市なんです」

――のちに『ヤッターマン』で、ボヤッキーが……。

「はいはい、よく言ってますね。『会津若松のお花ちゃん』とかね」

――少年時代をそこで過ごされて、やはり子どもの頃から絵がお好きで……。

「絵は好きでね。まあ、みんなが上手って言ってましたから、上手だったんだと思うんですけど。それで物心ついてきて、絵の道へ進もうか、という気になったときに漫画家になろうかなと漠然と思ってたんですけどね」

――当時、漫画はどんなところで入手されてましたか?

「私たちの頃は、貸本屋さんていうのがあったんですよ。そこに手塚治虫先生の漫画が入りまして。それで、もうハマってしまったんですね。そういう本を借りて読んで借りて読んでの繰り返しです。それで、すっかり手塚治虫ファンになって、いよいよ今度、自分でそれを真似て描いてみたりするようになるんですね」

――そうやって描いたものを、周りの人にお見せになったりして……。

「ええ、そうですね。最初は家の人とか友だちに見せますと、びっくりするわけですよ。それで、ますますノってきて、今度は本にしたいわけじゃないですか。田舎ですから、情報もあんまりないですし、わかりませんので手塚治虫先生にいっそのこと見てもらおうという大それたことを考えまして。それで、返事はあんまりアテにしないで送って。先生も忙しいから、と思っていたんですけれども手紙いただいたりしてビックリして、喜んで……それで今度は先生に会いたくなるわけですよ。『会っていただけませんか』って手紙を出して」

――それで上京して、お会いになるわけですね。お会いになってみて、いかがしたか?

「この感激は、もう言い尽くせないっていうかねえ。それで、またうれしいことにはね、『あなたの送ってくれた漫画、全部見てます』と。それで、『絵はまだまだだけどね、なんか考えることおもしろいから、ここへ来て勉強しませんか』っておっしゃてくださったんですよ。『えー』って(笑)」

――当時、もうすでに、地元でお仕事はなさっていらしたんですよね?

「してたんです。うちの会津若松市は、漆器が盛んな街でしてね。私もその中で仕事してました。それでもなんとか家族を説得して、そういうのを辞めてアシスタントになったんです」