中国網通が成立したその日からスタートした「国際化への歩み」について、以下、簡単に振り返ってみたい。

1999年、田溯寧氏が網通控股(小網通)を設立した。中国国内で大論争が巻き起こった電信業界再編の過程で、元の中国電信(China Telecom)が南北に分かれた。結果、南方21省が中国電信に所管されるようになり、北方10省、元吉通、元小網通が共同で中国網通(China Netcom)を編成したのだった。中国網通集団は2002年5月に成立して以来、その後幾度も再編と困難な合従連衡を繰り返してきた。

中国網通は設立後まもなく、吉通を合併吸収した。これが再編のきっかけとなり、結局、2003年末から2004年初までの間に、網通国際、網通南方、網通北方という三社がそれぞれ設立されたのだった。

2003年11月に、まず網通国際が立ち上げられた。網通国際の主な業務は、網通集団の国際ネットワーク資産を統一的に運営管理することで、国際運営キャリアと国外の企業ユーザーに対し、つまりは、Sprint、KDDI、NTTドコモなど世界主要数十社の電信運営キャリアと協力関係を結んだのだった。

その数カ月後、網通南方と網通北方が相次いで解散させられた。2004年8月には網通集団上場の必要性から、国際公司は上場をめざす集団公司の一部として国際分公司に再編され、網通国際上場の目玉とされたのだった。しかし、当時多くの業界関係者が予測した通り、網通国際は戦略的な組織改組プロセスの一段階に過ぎなかったのだ。

2005年7月27日、中国網通は国際ネットワーク業務の再編に関する電話会議を開き、国際分公司各部門の仕事を今後はすべて網通集団の関係部門へ編入して管理すると発表した。網通国際は夏の朝顔のように、一時でその短い使命を終えてしまった。

当時発表された中国網通の「国際ネットワーク業務再編に関する全体方案」では、再編過程でも決して業務チェーンを中断しないこと、ユーザー権益にマイナス影響を与えないこと、各種業務の連続性を保持すること、ユーザー向けサービスを引き続き改善することなどが強調されていた。網通はまた、従業員のリストラをおこなわないこと、しかも、全ての従業員を適切に配置することを承諾していた。だが結果としては、企業文化の違いにより、網通集団とその分公司に配属された元網通国際の従業員が多数転職した。網通は三年間の組織改組プロセスで、事実相当のコストを支払わされたのだった。

かつて網通国際は、中国網通集団と元網通控股(小網通)の全対外業務、技術と人的資源を擁していた時期があり、網通控股と中国網通集団の合併の象徴と言われてきた。また、中国網通が「アジアで最も影響力のある運営キャリアになる」ための国際企業データ業務分野で重要な一環を担っていた。当時、網通集団の売上は中国電信の半分に過ぎなかったが、国際業務での売上だけをみれば相手を上回っていた。このような重要な位置を占めていた会社がなぜ突然解消されたのか。中国網通はいまに至るも明確に説明していない。

網通国際の運命について、中国網通集団内部には二通りの意見があったようだ。一つは、田溯寧氏が提案した網通国際を存続させて、電盈傘下の国際業務に強い恒通公司と合併させ、網通と電盈がそれぞれ50%の株式を所有する案。これに対し、網通集団副総裁で、北京網通総経理であった趙継東氏は、網通国際を撤廃し、そのネットワーク、メンテナンス、経営オペレーション、地上資産を全て現地化、網通集団が国際部を設立してアジア網通を所管すれば、電盈と提携する必要はないとしたのだった。最終的に趙継東案が中国網通集団の共産党組織に認められ、実行されたわけである。電信の再度の再編を前に網通国際は歴史の舞台から去っていき、中国網通集団は形式上の改組を完成したのだった。