日本は、世界でも有数の "高い医療水準" を持つ国だと言われています。ただ、"高水準な医療が標準化されている" ことと同義かというと、決してそうではありません。手術や治療といった医療処置は、腕やノウハウに基づく暗黙知 (経験的に使っているものの簡単に言葉では説明ができない知識) に左右される領域を多分に含んでいます。数多くの名医が日本の "高い医療水準" を支えていることは事実ですが、医療現場に広まる暗黙知を放置していては、後進は育たず、施設間にある医療水準のギャップも開くばかりでしょう。
いかにして医療技術の標準化を図っていくか――日本医療の抱えるこの課題に取り組むのが、国立研究開発法人 国立がん研究センター東病院 (以下、国がん東病院) です。
同院は 2017 年 11 月、国立研究開発法人日本医療研究開発機構 (以下、AMED) が実施する「未来医療を実現する医療機器・システム研究開発事業」の下、"医師の暗黙知のデータベース化" に着手。手術の各工程、各処置に対して意味付けを行うクラウド システムを構築しました。同取り組みでは、今後 AI によって人の中に閉じていた技術や知識を定量化していくことによって、日本の医療教育や医療水準に変革をもたらすことを目指しています。手術映像という機微情報を取り扱う同取り組みは、ヘルスケア業界において 13 年以上の実績を持つマイクロソフトおよび Microsoft Azure が、プラットフォームと事業のスピードを支えています。
医師の暗黙知を可視化することで、定量的な数字に基づく医療評価を実現する
バイオ研究に基づいた再生医学、情報工学を用いた人工臓器など、医療をとりまくテクノロジーは驚くべきスピードで発展し、日々新たな技術や治療法が臨床現場に導入されています。
これらの先端医療は、社会を大きく変える可能性を持っています。しかし、国立研究開発法人 国立がん研究センター東病院 大腸外科長の伊藤 雅昭 氏は、医療現場にある暗黙知を客観的な指標へと落とし込むような働きかけがなければ劇的な医療変革は生まれないと述べ、1990 年代より普及した内視鏡手術に言及しながらこう説明します。
「腹部にあけた穴から腹腔鏡 (カメラ) と手術器具を入れて行われる内視鏡手術は、患者に与える負荷を減らして術後の早期回復を見込むことができる点から大きく注目されました。ただ、普通に開腹する場合よりも手術の難易度が高く、臨床導入から 30 年ほど経過した今でも、内視鏡手術を担当できる医師は、そう多くはいません。新たな技術は確かに医療を変える力を持っていますが、適切にこれを取り扱うことのできる人材を増やさなければ、業界全体の医療水準を高めていくことは叶わないのです。医療現場には数多くの技術・知識が暗黙知として存在していますから、これを客観的な指標へと落とし込んで人材教育に適用していくことが不可欠だといえるでしょう」(伊藤 氏)。
ある処置を行う場合にどの術具を用いるのが最適か、鉗子を使うならばそれをどう動かすべきか――こうした知識や手技が属人化しているために、医療業界のトレーニングには明確な解が存在しないと伊藤 氏は述べます。そして、それ故に "私の背中を見て学びなさい" といったような教育文化が未だに存在しているのだと説明。こうした状況を解決するために、同氏の所属する国がん東病院では、AMED が実施する「未来医療を実現する医療機器・システム研究開発事業」の下、医師の暗黙知を客観的なデータベース化する取り組みを進めています。
伊藤 氏は「国がん東病院が取り組むのは、世界で初となる "医師の暗黙知のデータベース" の構築です。」と語り、概要を次のように説明します。
「先ほど例に挙げた内視鏡手術は、患者の負荷軽減という視点だけでなく、暗黙知を可視化していく上でも有効です。内視鏡手術の映像データを基にして『手術工程』、『使用術具』、『処置内容』などを意味付けする時系列データを用意すれば、"術具をどのように動かした時に出血が起きたか" "成功した手術における処置にはどのような傾向があるか" といった情報を定量的に示すことができるからです。国がん東病院では、"医師の暗黙知のデータベース" とも呼ぶべきこの時系列データについて、2017 年 11 月から一次構築を開始し、翌年 3月にはこれを完成させました」(伊藤 氏)。
手術映像に処置の流れを意味付けするクラウド システムを構築
この一次構築では、まず 30 fps で撮影した約 100 の手術映像を用意し、フレーム単位に抽出した画像データに対して「手術工程」「利用術具」「処置内容」「対象臓器」などの情報を人力で意味付けしていく形で、作業が進められました。1 回の手術時間は 2 時間にのぼるため、100 ある手術映像の総フレーム数は 2160 万フレームを数えます。ここに要した作業量は極めて膨大だといえるでしょう。
国立研究開発法人 国立がん研究センター東病院 NEXT医療機器開発センター/大腸外科の竹下 修由 氏は、多大な工数を割いてでも、この一次構築を完了させたことには大きな意義があったと説明。現在このデータベースで何ができるのか、これからどのような発展が見込めるのかを交えて、このように述べます。
「一次構築では、データベースだけでなく実際の手術映像にこの情報を付与するクラウド システムも開発しました。院内のトレーニングや医療施設を跨いだ研修セミナーなどにおいても、手術映像に工程や術具などの情報が付与されているだけで、受け手の理解度は格段に高まります。今後データベースの情報を教師データにして AI モデルを構築すれば、"医療処置の解" を定量化することもできるでしょう。クラウド システムにこれを反映させる、医療機器メーカーと協働して臨床現場にある機器にエキスパートの頭脳を実装する、このように取り組みを発展させていけば、日本全体の医療水準を高め、手術の半自動化も実現していけるはずです」(竹下 氏)。
ヘルスケア業界における長年の実績を評価し、Microsoft Azure を採用
竹下 氏が説明したクラウド システムでは、Microsoft Azure 上に "医師の暗黙知のデータベース" と手術映像を保存するストレージ環境を用意し、双方のデータを Web アプリケーションに取り込んで表示する仕組みが採られています。
同氏は、「取り組みに着手してから 5 か月で一次構築を完了させる必要がありました。また、一次構築の後も、AI の実装や機能拡張などを高いスピード感で進めていかねばなりません。こうした理由から、サービスの基盤にクラウドを利用することを前提として、事業をスタートしました。」と述べますが、数あるクラウド サービスの中から Microsoft Azure を選択した背景にはどのような理由があったのでしょうか。
国立研究開発法人 国立がん研究センター東病院 臨床研究支援部門 研究企画推進部 システム管理室の青柳 吉博 氏は、大きく 2 つ理由があるとし、詳細を説明します。
「マイクロソフトは、ヘルスケア業界において 10 年以上の実績を持っています。ISO 27017 / ISO 27018 といった第三者認証も十分に得ており、信頼性の高さをまず評価しました。クラウド上では機微情報に該当する手術映像を取り扱います。従って、信頼できる企業のサービスであることを、第一に求めたのです。また、マイクロソフトは "インテリジェクトクラウド/インテリジェントエッジ" を方針に掲げていますが、これが我々のビジョンと合致していたこともポイントでした。竹下も述べたように、私たちは将来、エッジである医療機器にも "医師の暗黙知のデータベース" を実装させていきたいと考えています。Microsoft Azure はクラウド環境をエッジに拡張する Azure Stack などここに必要な機能を既に備えており、今後も有用なサービスが拡充されていくことも期待できました」(青柳 氏)。
これに続けて、一次構築を支援したパーソルプロセス&テクノロジー株式会社 (以下、パーソルP&T) システムソリューション事業部 テクノロジーソリューション統括部の石井 功一 氏は、AI モデルの構築やその実装を進めていく上でも、Microsoft Azure は有用だと語ります。
「Microsoft Azure の強みは、豊富な PaaS の存在だと考えています。現システムは、Azure SQL Database や Azure Storage、Azure App Services などを利用してサーバーレスを実現していますが、AI についても、学習済みモデルを提供する Cognitive Services や独自モデルの構築とデプロイが容易に行える Azure Machine Learning Services などを利用することで、PaaS ベースでこれを実装することができます。サーバーレスなシステムは、機能実装や拡張作業を迅速に進められるという点で大きな利点があるのです」(石井 氏)。
日本を発端とするイノベーションにオール ジャパンで取り組む
現時点では、"医師の暗黙知のデータベース" を利用する領域は内視鏡手術に限られています。ですが、国がん東病院では今後、他の手術へもこの仕組みを横展開していくことを計画しています。
教育の受け手の理解度向上など現段階でも既に多くの成果が生まれていますが、竹下 氏は「これはまだスタート ラインに立ったに過ぎません。」と述べ、このように構想を語ります。
「私たちの試みは、医療の解を構成する要素を紐解くこと、そしてこれをデータベース化して AI 活用や医療機器への実装を進めることで、医療水準の標準化と手術の半自動化を目指すというものになります。2019 年 3 月で『未来医療を実現する医療機器・システム研究開発事業』は 1 つの区切りを迎えますが、これから AI などで分析していくためのデータベースを構築できたことで、先述したビジョンを達するためのスタート ラインに立つことができたと考えています。今後、このデータベースやクラウド システムを駆使し、各企業・各研究機関と協働したオール ジャパンの精神で、取り組みを進めてまいります」(竹下 氏)。
これまでエキスパートの中に閉じていた知識や手技をシステム化して、臨床現場に落とし込んでいく――同取り組みによってこれが実現されれば、国内医療は従来以上の水準で標準化されていくことでしょう。伊藤 氏はこれからの取り組みの未来について、こう期待を述べます。
「日本の医療は世界から高く評価されていますから、"高い評価を得る医療" を構成する要素を明確にすれば、知識や技術を世界に輸出することもできると考えています。また、ここ数年で先端医療の臨床導入が大きく加速していますが、どのように先端医療を実践することが解なのかをデータ化すれば、日本を発端に世界中の医療を変えていくこともできるはずです。私たちの取り組みは、日本の技術を世界に広めていくための大きなきっかけにもなると考えています」(伊藤 氏)。
"エキスパートがやってきた頭脳や手技をソフトウェア化、デバイスなど臨床現場
に落とし込むことで、医療現場は飛躍的に変わっていくはずです。マイクロソ
フトやパーソルP&T の支援も得ながら、本取り組みを加速させていきます。"
-伊藤 雅昭 氏 : 大腸外科長 手術機器開発分野長 医学博士
国立研究開発法人 国立がん研究センター東病院
既述の通り、手術映像を用いた "医師の暗黙知のデータベース化" は、世界でも類を見ない試みとなります。国がん東病院の進める同取り組みは、世界の医療を変える "日本発のイノベーション" となる可能性を秘めているのです。医療の定量的な評価と手術の半自動化を実現するための取り組みは、今、世界中から注目を集めています。
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