世界的な半導体業界への関心は高まり続ける一方だ。外資系半導体メーカーやファウンドリーは日本国内に新たなデザインセンターや製造拠点を相次いで設置。日本政府においても半導体を特定重要物資に指定したり、次世代半導体開発に向けた支援策を打ち出したりしている。ただ、半導体の研究開発に向けた体制作りや、半導体開発に携わる人材の確保、育成には課題が残るのが現状だ。そんななか1つのヒントを示してくれるのが、日本における集積回路教育・研究を支える組織、東京大学「d.lab」の取り組みだ。d.lab准教授 飯塚 哲也 氏は、設計開発ツールを早期に学生に利用してもらうことで「学びのハードルを下げることができる」と指摘する。そこでエンジニアおよび科学者へ向けて、生産性に優れた計算環境「MATLAB」を提供する、MathWorks Japan川浪 洋資 氏が飯塚 氏に話を聞いた。
(左)
東京大学大学院 工学系研究科附属システムデザイン研究センター 准教授
(右)
MathWorks Japan インダストリーマーケティング部
通信/電機/半導体インダストリーマーケティングマネージャー
日本全体における集積回路教育・研究の要となる、センター「d.lab」
川浪 氏
MathWorksで通信/電機/半導体のインダストリーマーケティングを担当しています。本日はよろしくお願いします。まずは、工学系研究科附属システムデザイン研究センター(d.lab)についてご紹介いただけますか。
飯塚 氏
よろしくお願いします。d.labは、前身のVDEC(東京大学大規模集積システム設計教育研究センター)時代から集積回路に関する日本全国の大学・高専における教育・研究活動を支えてきたセンターです。設計に必要なCADツールなどのライセンスを購入し、各機関に提供しています。そのほか主な活動として各種プロセスでのチップ試作の取りまとめと、各機関への提供を行っています。
川浪 氏
ツールのライセンスは設計に必ず必要ですから、日本全体の集積回路の教育・研究活動を支える、要となるセンターと言えますね。2019年10月にVDECからd.labに変わったとのことですが、役割は何か変わりましたか。
飯塚 氏
活動内容は大きくは変わっていませんが、より産業界との連携を深めています。2019年には東京大学とTSMCがアライアンスを締結し、半導体技術の共同研究を世界に先駆けて全学・全社レベルで行うことになり、産学連携で設計したチップをTSMCの先進プロセスで試作し、未来のコンピュータに求められる半導体技術を共同で研究することを発表しました。d.labは、この取り組みのキーになる組織に位置づけられています。
川浪 氏
なるほど、先生はそのなかでどのような活動を行っているのでしょうか。
飯塚 氏
私はd.labで准教授を務め、無線や有線の通信に使われるA/Dコンバータや位相同期回路(PLL)のようなアナログ集積回路の研究に主に取り組んでいます。電気系工学専攻にも所属していて、研究室に配属された学生と一緒に教育・研究活動を進めています。
PLLやA/DコンバータのシミュレーションでMATLABを活用
川浪 氏
MATLABとの関わりについて教えてください。
飯塚 氏
東京大学では2019年からMATLABの包括ライセンス契約(MATLAB Campus-Wide License)を導入し、全学で利用しています。実はそれ以前から、アナログ集積回路の設計のうち、PLLやA/Dコンバータといった回路のアーキテクチャレベルのシミュレーションを行うツールとして研究室単位で導入してきました。われわれのグループでもライセンスを1〜2本持っていましたが、「今は誰かが使っているから自分は使えない」というライセンスの取り合い状態が頻繁に起こり、その結果ライセンスが使えないため、自分でプログラムを書くなど他の手段に頼ることも多く、MATLABをまったく使わない学生もいました。包括ライセンスを導入してからは、自分のPCにMATLABをインストールして1人1台いつでも好きなタイミングで使えるようになり、今ではほぼすべての学生がMATLABを利用しています。
川浪 氏
実際にどのように利用しているのですか。
飯塚 氏
PLLは集積回路ですが、制御のシステムですからMATLABの得意分野です。また、A/Dコンバータでもフィードバックを持つ構造では制御の考え方が重要になります。例えば、回路の中で周波数の異なるシステムがたくさん動いて、非常に高い周波数を出力するが、制御系全体では遅い周波数帯で動くという場合、回路を単純に全体でシミュレーションすると、極めて長時間の計算が必要になります。そういったものに対して、MATLABの動作モデルでシミュレーションし、安定性や特性の解析を高速に行っています。具体的な回路設計に入る前には必ずMATLABでシミュレーションを行っていて、ほとんどすべての学生がそういった手順を踏んでいます。
川浪 氏
ありがとうございます。
飯塚 氏
MATLABは、研究室の活動における必須のツールであり、MATLABがないと研究が進まないという状況です。大変重宝しています。
誰もがMATLABを使える環境になり、測定器の制御と自動化に応用
川浪 氏
そうした従来の取り組みに加え、今回新たに測定器の制御、自動化でMATLABを利用いただいたということですが、どのような背景があったのでしょうか。
飯塚 氏
実は当初、MATLABが測定器の制御に使えることを知らなかったんですね。5年ほど前まではGPIBインタフェースからC言語によるプログラミングで制御していたのですが、初心者にはハードルが高いものでした。その後、USBやLANインタフェースから商用ツールで制御する方法も試したのですが、それ専用のツールであるため情報が属人化してノウハウの継承ができないまま使わなくなってしまいました。
そんななかでMATLABの全学包括ライセンスであるCampus-Wide Licenseが導入され、研究室の全員が使える環境になったわけです。そこで研究室に来ていただいていたMathWorksの方と別の件で相談をしているときに「MATLABの測定器連携のToolboxを使えば、測定器の制御にも使えますし、自動化もできますよ」と教えてもらい「渡りに船だ」と試してみたのです。
川浪 氏
設計と測定とではかなり違う知識やノウハウが求められますね。
飯塚 氏
そうですね。私たちの研究室で実際に測定器を扱うのは、研究を始めてから2〜3年目以降など終盤の方になることが多いです。設計は学生同士教えあったり、先輩に聞いて学んだりすることができるのですが、測定は、ちょうど先輩が卒業してしまったタイミングで、まったく新しい知識を独学で学ばなければならない、ということになりがちです。そのため、学生が測定器の使用方法に習熟するためには、教員がつきっきりで教えなければならないという状況が起きていました。
また、測定は職人芸的なところがあります。自動化がうまくいっていないと、その都度装置を手で操作して測定するため、1ヵ月後にもう一回同じことをやろうとしてもすんなりできないということが起こっていました。測定の再現が容易ではないうえ、設定や手順がリソースとして残らないことにも頭を抱えていました。
川浪 氏
学生が独学で学べない、教える側に手間がかかる、再現性が乏しい、ノウハウ継承が難しいといった課題があったのですね。そうしたなかどのように導入を進めたのですか。
飯塚 氏
まずMathWorksの方にひな形となるプログラムを作製してもらいました。それを使ってA/Dコンバータの測定で試してみたところ、非常に満足できる結果が得られました。そこで次に、学生がひな形をベースにどんどんと改良を加え、実際に使える環境にまで仕立て上げていった形です。実際にいま動いているプログラムの基本的な処理は、最初のひな形と同じものです。最初の一歩、ゼロからイチのところを教えてもらえたことが非常に大きかったです。
「MATLABでできるならやってみよう」MATLABが学生の学びのハードルを下げた
川浪 氏
以前と比べると、MATLAB導入による自動化によってどう変わったのでしょうか。
飯塚 氏
以前は、測定のための細々とした設定を1つ1つ確認して手作業で行っていました。今は、MATLABのプログラムで、ボタン一発でその設定を最適化することまでできるようになっています。また、これまではどういう手順、シーケンスで測定したのかの記録もすぐに再現できる形で残りませんでしたが、MATLABベースのプログラミングで測定の手順を記述できるようになりました。
これは実験の記録を残すという意味でも大変有益ですし、ノウハウの継承という点でも大きな成果が期待できます。いまは導入したばかりですので、まだ研究室のメンバー全員が使っているわけではありません。ちょうどいま私が「測定のときはMATLABを使え」と説いて回っている段階です。
川浪 氏
われわれも実験のサポートをさせていただくことで、より学生さんに使っていただけるように頑張っていきたいと思います。現時点で、具体的な効果を挙げていただくことはできますか。
飯塚 氏
いまお話したパラメータの最適化が一つの大きな効果ですね。回路の特性をキャリブレーションしたいときに、測定結果を使ってフィードバックをかけてパラメータを調整するというループを回します。以前はそのループを人の目で見て手でやっていましたが、それを自動化できたことで、非常にスマートなアルゴリズムを実装して、結果をフィードバックすることを自動で行うところまでできています。実際に測定で得られる性能も上がっており、人間が行うと場当たり的に荒く調整することになりがちですが、自動化すると細かく設定をスイープして最適点を自動で見つけるといったように精緻な調整が容易に実現できます。
川浪 氏
研究室全体での効果、研究の加速にも貢献できているということでしょうか。
飯塚 氏
もちろんです。実際、MATLABによる測定の自動化がなければ実現できなかったという事例も出始めています。自動化の領域が広がっていくなかで、これからさらに研究の加速に貢献してくれると確信しています。
学生が高い興味と関心を寄せる、近年の半導体業界
川浪 氏
学生が教えあうというお話がありましたが、教育、育成という点でMATLAB導入により何か効果を感じられましたか。
飯塚 氏
MATLABが学びのハードルを下げていますね。学生のなかには、測定器のボタンを手で押していくような作業を泥臭く感じ、好まない人もいます。一方、MATLABは学部生の実験でも一部導入されていて、MATLABに対するハードルは低いと思います。いきなり「スペクラムアナライザーを使ってください」と言われると引いてしまう学生でも「MATLABでできるよ」と言うと「じゃあやってみようかな」となりやすいでしょう。また「先輩が作ったプログラムがある」という点も、学生のハードルを下げる一因になっています。MATLABをディープラーニングの実装などで使っている様な学生もいますし、そういった素養がある学生がハードウェアの領域にも入ってきやすくなるという意味でも、半導体業界にとって大変なプラスだと思っています。
川浪 氏
半導体業界でも人手不足が叫ばれていて、教育や育成は業界的な課題です。
飯塚 氏
幸いなことに半導体、ハードウェア業界に対する学生の注目度、関心は高まっていると感じています。著名な外資系企業が日本国内にデザインセンターを作り、優秀な半導体設計のエンジニアにはこれまで以上の良い待遇が期待できます。整ったきれいなオフィスや、身につけた技術に見合った好待遇で働けることは、学生のモチベーションにもつながります。きちんとした出口があることは学生にとっても夢があるでしょう。
川浪 氏
日本では半導体スタートアップの起業が難しいと言われています。今後、ソフトウェアとハードウェアの間のハードルが下がることで「半導体デバイスの民主化」といった動きにつながることはあるでしょうか。
飯塚 氏
民主化はまだ「デバイス」までは降りてきていないと思いますが、回路設計までは降りてきている様に思います。オープンソースの設計ツールやプロセス設計情報も知名度を得てきておりますし、特にデジタル回路の設計はもうほとんどプログラミングです。C言語もそうですし、最近はPythonもそうです。MATLABからHDL Coderでコードを自動生成するパターンもあります。よりスマートなアルゴリズムのソフトウェアを書ければ、ハードウェア設計までいけるのは最近の潮流でもあるでしょう。
そうしたデジタル回路に比べると、アナログ回路にはまだ障壁があると考えています。アナログ回路では、一般的に使えるソフトウェアから完全に自動で設計できるというものは現時点では存在しません。トランジスタレベルで回路を設計していくので、MATLABとアナログ回路の間にはまだギャップがあります。とはいえ、さきほどの測定器の自動化しかり、アナログ回路におけるMATLABを使った制御レベルでのシミュレーションしかり、慣れ親しんだツールで始められるのは大変いいことです。
デジタル回路の設計では生成AIを活用する学生も増えている
飯塚 氏
ちなみに質問なのですが、MATLABはデバイスとかトランジスタレベルの物理シミュレーションはあるのでしょうか。
川浪 氏
Simscapeと呼ばれる製品群があり、半導体デバイスなどのモデリングやシミュレーションが可能です。
飯塚 氏
その際には電磁界シミュレーションのような仕組みを使うことになると思うのですが、同じようなことは、MATLABでもできるのですか。
川浪 氏
できることはあります。ただ、電磁界シミュレーションは、他社の専用ツールと比べると機能面で不足を感じるかもしれません。FEMを使って物理現象を解析する手段もありますが、MathWorksとしてはSimscape含めシステムレベルでのシミュレーションに軸足を置いています。
飯塚 氏
連携させたり、うまく使い分けたりしていくということですね。
川浪 氏
そうですね。一方で、教育や育成の面から、生成AIに対するニーズはありますか。弊社でも、MATLAB AI Chat PlaygroundというMATLABと生成AIでどんなことができるのか試せる場の提供をはじめました。今後、製品に生成AIを組み込んでいく予定です。
飯塚 氏
生成AIを研究にダイレクトに使うことはまだ難しいと感じています。アナログ回路は自動設計がまだうまくいっていません。確かに集積回路関係の学会でも生成AIの利活用については活発に議論されていますが、AIが自動で回路を作る未来はまだ遠いという印象です。一方、現実的な期待としては、シミュレーションの方法を補助的に打診してくれたり、そのコードを生成してくれたりするものが考えられると思います。
実際、デジタル回路やそのためのアルゴリズムの設計に関する研究分野では、Pythonコードのプログラミングに生成AIを活用している学生もいます。一から生成させるのではなく、自分が書いたコードに対するフィードバックを得るといった使い方です。ペアプログラミングを行うときに相手の代わりとして生成AIを活用するようなイメージですね。同じようにアナログ回路でも、自分が設計した回路に対してシミュレーションの方法や改善点を聞いたりする使い方ができればいいなと思います。
川浪 氏
東京大学では学生が生成AIを使う場合、何か制限などはあるのでしょうか。
飯塚 氏
特にこれといった制限は設けておりません。もちろん、機密情報の取り扱いに注意することは必要ですし、生成AIの回答を盲信したり、そのまま論文やレポートに使うことは問題ですが、生成AIは情報を収集したり精査したりすることにおいては特に役立つツールですし、活用しない手はないでしょう。大学としても生成AIツールの利用を一律に禁止することはせず、教育・研究等における利用の可能性を積極的に探るとともに、活用上の実践的な注意を発信していく方針を取っています。
人材の教育や育成に向けて、これからの取り組み
川浪 氏
今後、MATLABに期待することがあれば教えてください。
飯塚 氏
Campus-Wide Licenseは非常に使い勝手がよくて、実際にかなり使い込んでいます。例えば、制御系の分野では、学部3年生の実験でも活用されています。そのため学生にはできるだけ早い段階からMATLABに慣れ親しんでほしい。MATLABに親しむことで、研究室に入ったときも、スムーズにMATLABを使ったシミュレーションや測定の自動化などができるようになります。まずは、そうした取り組みをサポートいただきたいです。
その他に、さきほどの電磁界シミュレーションもそうですが、アナログ回路でうまく使える機能の強化をお願いしたいです。例えば、HDL Coderのように、特定のアナログ回路のビヘイビアモデルでシミュレーションした結果から、他社ツールとタイトに連携して具体的な回路パラメータを自動的に決定したりするようなことができると、ありがたいですね。
川浪 氏
MathWorksとしてもMATLABに親しんだ学生が企業に就職してスムーズに業務に携わっていただけるようさまざまなサポートをしていきたいと思っています。2024年12月には、半導体産業の国際展示会「SEMICON Japan 2024」に合わせて、今年新たに立ち上げた新世代の半導体設計と検証分野にフォーカスする新たなサミット「Advanced Design Innovation Summit(ADIS)」も同時開催されます。国内の半導体人材の教育や育成にEDA/CAEツールを役立てていただくためのADIS実行推進委員会に弊社も参加しています。そうした活動を含めて、半導体業界を盛り上げていきたいと考えています。
本日はありがとうございました。
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