鉄や銅など、身の回りにあるモノの材料としてのイメージが強い金属。これらが私たちの身体の中において重要な役割を果たしているといっても、あまりピンとこないかもしれません。しかし、亜鉛、マンガン、コバルト、モリブデン、クロム、セレンなど、金属なくして、私たちの健康は維持することができません。これらの金属は身体の中にごくわずかしか存在しないものの、タンパク質に結合するなどして多様な形態を取りながら、生命現象を支えるために働いているのです。
千葉大学大学院薬学研究院 小椋 康光教授は、そうした生体内における微量金属元素の動態に着目し、長年研究に取り組んできました。近年の分析技術の進歩にともない、さまざまなことが明らかになりつつある一方で、まだ多くの謎が残されているといいます。今回は、生体に必須な微量金属元素に関する研究の最新動向について、小椋教授にお話をいただきました。
生体内の微量金属元素の動きを追う「メタロミクス」
小椋教授が取り組む研究のように、生命現象における微量金属元素の機能と役割について総合的に理解しようとする学問領域を「メタロミクス(Metallomics)」といいます。近い研究領域として、遺伝子が対象となる「ゲノミクス」、タンパク質が対象となる「プロテオミクス」があります。メタロミクスの領域においても、遺伝子やタンパク質の機能をもとに生体内微量金属元素の動態に迫るアプローチがありますが、小椋教授の研究は金属自体の動態に着目していることが特徴です。その理由について、小椋教授は次のように語ります。
「野球でたとえるならば、ゲノミクスではベンチのサイン、プロテオミクスではプレイヤー、メタロミクスではボールをみて試合の流れを追うことと言えます。野球に詳しい人であれば、ベンチのサインだけをみて試合内容の理解ができるかもしれませんが、多くの人は普通、ピッチャーが投げたりバッターが打ったりするボールの動きを追いかけますよね。それと同じように、私たちは直接金属の動きを追うことで、生体のなかで起きている現象を解明していこうとしています」(小椋教授)
2000年代初頭、メタロミクスの黎明期においては、生体内に存在する微量の金属元素を測定すること自体に大きな価値がありました。しかし近年では、これまで培ってきた微量金属元素測定の技術や知見をどのように医療や環境、食品などの分野へ応用していくかという視点の重要性が高まっています。一方で、検出限界以下の微量金属元素の謎もまだまだ残されています。小椋教授は、メタロミクスの現状について、「大きく分けて、分析技術をさらに磨いて感度を高めていく方向性と、医療や環境などへの応用を考えていく方向性の2つへ展開しています」と説明します。
生命維持に必要だが毒にもなるセレン、体内ではどのように変化しているのか
小椋教授が取り組む研究テーマのひとつが、セレンの代謝機構の解明です。セレンは、生体に必須の微量金属元素として抗酸化作用や甲状腺ホルモン代謝調節などの重要な役割を担っており、その不足によって心筋障害などを引き起こすことが知られています。一方で、毒性の高い元素でもあり、セレン化合物のなかには毒物指定されているものもあります。したがって、生体内ではセレンが身体にとって毒にならないように利用されるための代謝機構があるはずですが、存在量がごくわずかであるがゆえに、その全貌はいまだ明らかになっていません。
セレンの代謝機構を調べていくなかで小椋教授らが明らかにしたのは、細胞内に取り込まれたセレンが、セレノシアン酸というより毒性の低いセレン化合物へと代謝されていることでした。このセレノシアン酸は、毒性の高いことで知られるシアン化物とセレンが反応したことにより生成しているものと考えられます。つまり、細胞は毒性の高いシアン化物を自ら作り出し、さらに毒性の高いセレンと反応させることで解毒していたというわけです。
「まさに、“毒をもって毒を制する”というメカニズムです。こうした機構が分子レベルでどのように成り立っているのか、現在も引き続き検討を進めています」(小椋教授)
このようにして小椋教授は、セレンが生体内のどこでどのような化合物として存在しているか、尿などの生体試料、培養細胞、植物などさまざまな対象について調べていくことで、セレンの代謝機構の全体像の理解に挑んでいます。
これに加えて、最近、小椋先生は別の研究にも取り組んでいます。セレンを解毒するという働きとは反対に、セレンが別の毒物を解毒するという現象も研究対象にしています。「大型の海洋生物のなかには水銀が蓄積されることがありますが、その毒性は現れてきません。まだ詳しいことは分かっていませんが、状況証拠だけを見ていくと、実は海洋生物の体内で、セレンと水銀が反応して解毒していることは確かなようです」(小椋教授)
微量金属元素の測定で活躍するICP-MS
実験では、セレンをはじめ各サンプル内に含まれる微量金属元素の定量を行います。ここで活躍しているのがICP-MSという分析装置です。
たとえば、サンプル中にどのような化学形態のセレンが入っているのか分析する際には、高速液体クロマトグラフィー(HPLC)とICP-MSを組み合わせたLC-ICP-MSという方法で複数の化学種を分離して定量していきます。また、レーザーアブレーションICP-MSという方法を用いると、試料中のどこにどのような微量金属元素がどれだけあるか可視化することが可能です。
セレンの分析におけるICP-MSとの出会いを、小椋教授は次のように振り返ります。
「そのとき私はフランスへ留学していたのですが、留学先で導入していたAgilent 7500 ICP-MSにコリジョン/リアクションセルという技術が採用されていたことで、当時セレンの分析を困難にしていた原因が解消されたのです。装置に日本語で注意書きがあるのを見て、日本の技術が世界に拡散していることを誇らしく思ったのを覚えています。そして、アジレントが日本でICP-MSを開発していることを知り、帰国後、大学でもAgilent 7500 ICP-MSを導入することに決めました」(小椋教授)
そして小椋教授は現在、アジレントと共同で、ICP-MSを用いて単一細胞内の微量金属元素濃度を測定するシングルセル解析の手法開発にも取り組んでいます。
シングルセル解析では、細胞集団の平均をみるのではなく、個々の細胞について調べていくため、細胞中の金属存在量の個体差を明らかにすることが可能です。
小椋教授はシングルセル解析の意義について「たとえば100万個の細胞があるとすると、従来は100万個の平均値を調べるような方法が一般的でしたが、実際の個々の細胞にはそれぞれキャラクターがあります。そのなかから特異的な変化を起こしている細胞を発見するためには、やはりシングルセル解析が必要になります。とくにメタロミクスにおいては、金属間の相互作用を調べたい場合などにも有効です」と説明します。
ICP-MSを用いたシングルセル解析の手法が確立されれば、微量金属元素が関与する生命現象がより詳細に明らかになっていくことが期待されます。
「一原子の測定」という究極目標に向けて
分析技術が進歩していくにつれ、ライフサイエンス分野における金属元素分析の注目度は高まりつつあります。小椋教授は、「究極の目標は一原子の測定です」とメタロミクスの展望を語ります。
「現在取り組んでいるICP-MSによるシングルセル解析はあくまで通過点です。将来的に一原子を測定できるようになれば、いろいろな情報が得られるはずです。解析対象となる範囲がよりミクロになっていくことで必ず次の扉が開けていくと考えています」(小椋教授)
こうした究極の目標を達成するためには、小椋教授の専門領域である薬学やライフサイエンス領域だけでなく、装置開発に向けて工学領域の研究者や分析機器メーカーなど業種・業態を超えて産学一丸となって、さまざまな分野の人たちが協働で取り組んでいく必要があるでしょう。
また、細菌学者であるルイ・パスツールの有名な言葉に、「科学に国境はない」というものがあります。国内だけに閉じていては、科学の進歩はありえません。研究を発展させていくためには、世界的な研究者ネットワークを構築していくことも重要です。ここに、アジレントが大きく貢献してきたと小椋教授は振り返ります。
「フランスに留学していたとき、アジレントの方が主導してメタロミクスの国際的な研究者のネットワークを作られていたことが印象に残っています。分析でわからないことがあった際には、似たような取り組みをされている他の研究者を紹介していただいたり、研究会や学会が終わった後に懇親の機会を設けていただいたりなど、さまざまな形でネットワークづくりに取り組んでいました。そのネットワークが国内に留まらず、国際的に展開していたことが大きく幸いし、私がメタロミクス業界に身を置くことができたのは、その方のおかげという部分も大きいとも言えます」(小椋教授)
アジレントはこれからも、信頼性の高い分析装置はもちろん、研究者ネットワークのような無形的な価値も提供し続けていきます。
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