謎の成金紳士、ジェイ・ギャツビーはニューヨーク郊外ロングアイランドのウエスト・エッグ海辺にそそり建つ城で毎週、贅を尽くしたパーテイーを繰り広げる。浪費に込められた真意は、湾をはさんだイースト・エッグに住む初恋の人、デイジーを招き寄せたいという狂おしいばかりの純愛だった。二人の間を分かつ湾と、デイジーの別荘の船着き場に点滅するグリーンライト...。

時代は、アメリカが無垢な子供のように世界の富を集めていた1920年代。誰も忍び寄る大恐慌の気配にすら気付いていない。

ニューヨークを舞台にした小説は数限りなくなくある。その中で、どの世代に選ばせてもベストテンの上位に入る作品がスコット・フィッツジェラルドの、「グレイト・ギャツビー」だろう。高校生の教科書にもなっている。最近、作家の村上春樹氏が出版した(中央公論新社)新訳も素晴らしい。でも私が繰り返し読んだ、いくつかのフレーズに関しては、野崎孝氏の訳(新潮社版)のほうが好きだ。

情景はギャツビーと、主人公のニックがクイーンズからクイーンズ・ボロー橋を渡ってマンハッタンに入ってゆく場面。確かに現存する(何せこの話は80年以上前のものなのだ)クイーンズ・ボロー橋がイーストリバーの真ん中で最高地点に達した瞬間、目に飛び込んでくるマンハッタンの光景は感動的である。しかし、その情景を、これほど見事に表現した文章はほかに知らない。

-- クイーンズ・ボロー橋から眺めたニューヨークは、何度見ても、初めて見る街という印象を与える。世界中のあらゆる神秘、あらゆる美がこの中にあるという幻想を、いつも新しく見る者の胸に湧き起こすのだ。「この橋を越えたからには、どんなことだって起こりうるのだ」そう、ぼくは思った。「およそどんなことだって...」と --(出典:『グレート・ギャツビー』フィッツジェラルド著 / 野崎孝訳 新潮社刊)

一方、宵闇迫るマンハッタンを描写したこの部分は、村上訳のほうが雰囲気を伝える。

-- ぼくは、ニューヨークが好きになり始めていた。夜になるとあたりに漂うぴりっとした冒険気分、男たちや女たちや車の絶え間ない行き来が、僕らの好奇の目に与えてくれる満足感。五番街を歩きながら、人混みの中から夢をかき立てる女を選びだし、さあ、これから僕は彼女の生活に入り込んでいこうとしているんだと、しばし想像するのが好きだった。この魅惑的な大都市の黄昏どきに、ときおりそこはかとない孤独を感じ取ることもあった --(出典:『グレート・ギャツビー』フィッツジェラルド著 / 村上春樹訳 中央公論新社刊)

フィッツジェラルドのニューヨーク描写が、なぜ異邦人である私の心をとらえて離さないのだろう。多分、一因は、フィッツジェラルド自身が中西部出身のよそ者で、ニューヨークを、外国人の私と同じように感じる部分があったからなのかもしれない。

もっとも平均的なアメリカ人から見れば今やニューヨークは間違いなく「外国」。アジア人は、ほとんどが"地元民"とみなされ、お上りさんの金髪青年、中年に道を尋ねられるのが常なのだが。

さてイースト・エッグとウエスト・エッグについてフィッツジェラルドは、こんな風に描いている。

-- ニューヨーク市から20マイルばかり離れたあたりで、一対の巨大な卵が、西半球で最も従順な海水域、つまりロング・アイランド海峡という湿った大きな裏庭に向けて突き出している。輪郭は実に瓜ふたつで、ただ名ばかりの湾によってあいだを隔てられている。どちらも完全な楕円形ではなく、かのコロンブスの卵のように、内陸にくっついている下の部分が、そろって平らにひしゃげていた --

フィッツジェラルドは、しかし、この相似形の卵に決定的なコントラストをつける。

-- より強く驚かされるのは、形とサイズを別にすれば、ほかのすべての点において、この二つの土地が似ても似つかないというところにある --(以上、出典:『グレート・ギャツビー』フィッツジェラルド著 / 村上春樹訳 中央公論新社刊)

イースト・エッグは銀の匙をくわえて生まれた名門だけの場所、ウエスト・エッグは、同じくらい美しいが、成り上がり者が到達できるぎりぎりの線。決して両者がまじわることはない。

実際のロング・アイランドには、イースト・エッグもウエスト・エッグも存在しない。いずれもフィッツジェラルドがつけた架空の名前だ。イースト・エッグはロングアイランドから海峡に突き出したサンズ・ポイントを、ウエスト・エッグが、その南に位置する相似形の半島、グレイト・ネックをモデルにしている。フィッツジェラルド自身、グレイトネックに数年間、妻のゼルダと暮らしたことがある。

ただ、「成り上がり者は上流階級の娘と結ばれることがない」という作品のテーマを際立たせるために「二つの卵」を架空のワンダー・ランドにする必要があったのだ。では、ギャツビーの世界へ行ってみよう。