グラウンド・ゼロに行くにはいろんな方法がある。アッパー・イーストサイドに住む私はレキシントン・ラインの(5)に乗ってFulton Street(何故かファルトン・ストリートと呼ぶのだ)で降りてから歩いた。

ここいらは最初にマンハンタン島に入植したオランダ人がインディアンとの境界線に沿って築いた石垣(ウオール)のすぐ近く。マンハッタン島は南に下がるほど尖がっているから歩いて一巡りするのに便利だ。市庁舎から証券取引所、連邦準備銀行、それにウオール・ストリートの金融街へ。足を延ばしてスタテンアイランドの間をつなぐサウス・フェリー乗り場、自由の女神が良く見えるバッテリー・パークまで--。碁盤の目になっていないロワー・マンハッタンはミッドタウンとは一味変わった雰囲気がある。お薦めの散歩コースだ。

ソーホーや、チャイナタウンには、たまには来るけれども、ここまで下ることはめったにないので、私もかねて訪ねてみたかったウオール・ストリート23番地のモルガン商会の旧本店を訪れてみた。別に大金を預ける予定などはないが、ここでも1920年9月16日に本店前に止めた荷馬車が突然爆発、死者38人、負傷者300人を出す事件が起きている。犯人は捕まらず、「ウオール・ストリート全体に対する攻撃」(モルガン家当主ジャック・モルガン Jr.)という見方が通説だ。

現在のモルガン・ギャランティーは、ウオール・ストリート60番地の近代的ビルに移っているが、旧商会の重厚な建物はモニュメントとして残されている。壁の大理石には当時の傷跡が今も残ると聞いてきたのだが、風雪のせいかはっきりとは確認できなかった。

「マンハッタンの空はビルの形に切り取られている」。ある作家はうまいことを言ったが、トリニティー教会からチャーチ・ストリートを北に歩くと超高層ビルで仕切られた区画が突然消えてパッと視野、空間が広がる。そこがグラウンド・ゼロだ。

6.5ヘクタールというから東京ドーム球場の1.5倍くらいの広さか。地下6階部分まで掘り下げられた巨大な空間だ。後で述べるが5月に地権者と保険会社の支払い交渉が決着するまで本格的工事は全く行われていなかったから、私が訪れた当時は、事件後残骸を撤去した"爆心地"のままだった。

見物客は、まずグラウンド・ゼロのわき120 liberty Streetに被災者家族協会が作った「9.11ビジターセンター」に立ち寄る。100坪にも満たぬ簡素な建物だが、犠牲者の無数のスナップ写真、山のように積み上げられた焼けただれたメガネや変形した携帯電話、消防士の徽章などの遺品には思わず背筋に寒いものが走る。

周知の事実だが事件の概要をまとめてみよう。2001年9月11日午前8時46分、ワールド・トレードセンター北棟92階にアメリカン航空11便が突入、続いて9時3分には南棟にユナイテッド航空175便が突入した。事件の被害者は当初、4,900人とも伝えられたが、1年後の集計ではビル内の死者は2,801人。世界の金融センターであっただけに48カ国と地域の人が被害にあっている。国別にみるとドイツ、チリ、コロンビア、トルコ、フィリピン、英国、カナダの人が100人以上死んでいる。日本人の被害者は24人。343人もの消防士、警察官23人などが救助活動のさなかに命を落とした。事件発生からビル崩壊までの短時間に、ビル内にいた2万人近い人を救出、避難させるという英雄的行動の尊い犠牲だ。

ビルの崩壊については、事件直後に内部爆発説も出た。しかし今日では、大型航空機の燃料がエレベーター・シャフトを通じで滝のように流れ落ち、これに引火したために構造材が溶解してビルが崩壊した、という見方が定説だ。

ビジターセンターの地下室には「Voice of Promise」というコーナーが設けられている。事件に巻き込まれた人々がどのように悲しみを乗り越えたのか。残された遺族の想いがヴォイス・メッセージで記録されている。センターを訪れた人々もこの想いに答えて感想を記録する。このサイトをいかに再建するべきかのかの意見も多く収められていた。ノートブックには、いろんな国の言葉で感想が書き込まれていた。

ビジターセンターで見たビデオの印象が強烈だから外に出て、改めて「グラウンド・ゼロ」を目の当たりにすると、なんとも言えぬ気持ちがこみ上げてくる。ただ、軽々しくその想いを口にするのがはばかれる気分だ。

ほぼ正方形なグラウンド・ゼロを取り囲むように地上2階ぐらいの高さに木製の回廊が作られ周囲を一周出来る。誰でも最初に目にするのは小泉前首相も詣でたモニュメントだ。生花、リボン、犠牲者の写真が重なり合うように積まれている。