国家の力を軍事力、強制力という「ハード」と、文化発信力など「ソフト」の総合ととらえるのが「ナイ外交論」の特徴だ。より正確にソフト力を定義づけると、「強制や報酬でなく、魅力によって望む結果を得る能力。国の文化、政治的な理想、政策の魅力によって生まれる力」となる。

ナイ教授がアジア太平洋地域の安定に関し日本に最も期待しているのがソフト・パワーの発揮だ。「昨年11月にBBCが世界27カ国で行った調査で、日本への好感度は54%でカナダとともに世界一です。イラク介入で権威失墜したアメリカは30%に過ぎず、中国は42%だった。日本はこの強みを生かさなくては」とナイ教授はいう。

具体的に日本は、どこで、どうソフト・パワーを発揮すればいいのか。「たとえば世界貿易機関(WTO)の多角的貿易交渉で合意を目指す話し合いに調整力を発揮すること。『日本にはコメ問題があるから』と引っ込み思案になるのでなく、『アメリカの言うことは聞けないが、日本が言うなら』という国も多いのだから、それらの意見をくみ上げてきめ細かに交渉を前進させたら日本の評価は上がる」。なるほどそんなものか。

「また地域安定の基礎である経済発展と環境対策は、日本のソフト・パワーが最も光る分野でしょう。技術的にも資金援助でも日本の独壇場となる。ここで日本がASEAN諸国と一体となってリーダーシップを発揮すれば中国も無視することはできない。無論、日本のアニメや、ミュージックはアジアで最も人気があるでしょう。文化輸出なら誰も脅威などとは言いませんよ」。ソフト・パワー論になるとナイ教授の弁舌は、すこぶる滑らかだ。

ここで講演が終わり質疑応答に移った。米国の知的サークルで行われるこうした会合の良さはスピーチ、質疑応答そして、それが終わった後の非公式なレセプションとがうまく組み合わされていることだ。いろいろなレベルで講演者と、参加者のコミュニケーションが深かめられるし、みんなの前では恥ずかしい、という人(あまりいるとは思えないが)も個人的接触を図る機会が与えられる。

最初の質問者はABCテレビの政治部記者だった。質問:「先生は日本の軍事的貢献の拡大を歓迎すると言ったが、憲法改正までとなると、その動きは米国の利益と相反しませんか」。答:「繰り返しになるが日本が軍事大国化する恐れを持つ必要はない。日本は二度と30年代に戻る可能性はない。私の言っているのは日米協力によって 1)北朝鮮の核開発能力に蓋(cap)をかぶせる 2)ASEAN諸国の経済発展、平和へのイニシアティブを促す 3)オーストラリアとフル・パートナーシップを組んで地域安定を図る 4)太平洋の海上通商ルート(シー・レーン)の安全運航を確保する。こうしたことでアジア・太平洋地域の自由で民主的な政治体制を守る -- ことにある。(日本の)防衛能力向上は目的ではない。それは手段なのだ」。

私はこう聞いた。質問:「米国の古典的アジア政策は、域内の一国がヘゲモニーを握ることのないようにバランスをとることにあった。今日、日本と安全保障条約を結びつつ中国とも是々非々というべき関与政策を取るということは第二次大戦前の政策に戻ったということか。また対中関与政策は、中国が2012年の上海万博後、台湾を武力解放しようとした時どうなるのか?」答:「長期的に見てヨーロッパでもアジアでも一国がヘゲモニーを握ることに反対する米国の立場は変わらない。この点、冷戦期は全く異なる要素が働いてきたことはご指摘の通りだ。台湾に関して私は中国が90年代に武力解放を断念したと信じている」。

私がこう聞いたのには背景がある。30年近く前の78年12月、当時の民主党カーター政権のホルブルック国務次官補は71年のニクソン訪中の意義について、「米国はその極東政策において(パートナーとして)日本と中国の二つの大国のいずれかを選ぶ必要はもはやなくなった。今日、われわれは両国との緊密な関係を(同時に)追求できる」と述べた。敵か味方か、の冷戦思考はやめて、必要があれば、いずれか一方と組んで他方を不利にするバランス・オブ・パワーの世界に戻ったことを示唆したのだ。

良くも悪くも、「悪の枢軸か、味方か」で峻別するブッシュ政権時代、日本の対応は単純な、「白か黒か」でよかった。しかし来年、仮に民主党政権が誕生し、ヴォーゲル教授やナイ教授が影響力を行使する米外交は、ホルブルックが語った路線をたどる可能性が強い。71夏、ニクソン政権のドル防衛政策発表と対中国電撃訪問を日本外交官は、「戦後外交史の悪夢」と呼ぶ。対応がないと悪夢は何度も繰り返えされそうだ。