ついに「無」を買った。
「無」を買ったらもう大人といっていいのではないかと思います。なぜなら、子供は「無」を買いません。子供が買うのはおもちゃやゲーム、お菓子など、物質的な「有」を買います。僕も昔はそうでした。少し大きくなってからはサイクリング自転車、高校生の頃はギターとアナログシンセサイザー、成人になってからはデジタル機器、いろんな「有」を経て、数年前には土地と家を買って、やっとこさ、物質的なショッピングの終盤を迎えました。
今回買った「無」は勅使河原蒼風の直筆の「無」と書かれた書です。これも物質的な買いモノにはちがいないけど、その成分のほとんどは目には見えない芸術という概念です。このような美術品に手を出したのは生まれて初めてです。ジャンルでいうと古美術になります。古美術に手を出したらもう人生おしまいです。死ぬ準備をするようなもんです。
そんな非物質界に足を踏み入れようとしているぼくが、去年買ったものは二酸化炭素です。二酸化炭素といえば「気体」です。「気体」も正確には非物質ではないけれど、目には見えません。世の中が今、躍起になって削除を推し進めている二酸化炭素を大金を払ってワイルドに買ってやりました! ちなみに、二酸化炭素は「水草水槽」で使用します。水槽内に添加して、水草に光合成を促進させるために必要なのです。
話を「無」に戻すと、「無」というのはなかなかおもしろいテーマです。「無」を買った。なんて文章で書き出すと、おやおやそれはどういうことかな? と思わせぶりな内容で、ついつい読み進めて読者を羽交い絞めにします! どうでしょう? そうでもないですか。
「無」をテーマにしたクリエイションで思い出すのは、やはり、ジョン・ケージの無音の音楽『4分33秒』という名曲ではないでしょうか。ロバート・ラウシェンバーグの絵画、何も描いていないキャンバス『白い絵』シリーズ。マンガでいうと小田島等の『無 for sale』は名著。僕と天久聖一との共著『ブッチュくん全百科』もそうですよ! 存在もしないマンガキャラクターの百科です。作家は無事故無事雄、「無」がダブルで! いや、自作も持ち出さなくても、世の中には「無」をテーマにしたものはたくさん。日本画における描かれない空間を重視する美意識、「余白の美」なんかもそうかもしれません。 「禅」もそうなのかな。「無」がひきこむ力、というのはあるようです。
美大に入る前、近所の画塾に通ってました。画塾ではおもにデッサンの勉強をします。受験も近づいたある季節、高校の担任に美大に行きたいことを相談したら、画塾に通わなければ美大に入れないというようなことを言われて、なんだかしかたなく入塾。画塾でやることは、黙ってデッサンすることだったので、これならわざわざ月謝を払って通わなくとも家でできるんじゃないかと思い、それに、子供の頃から絵を描いてた僕はデッサンにはそうとうな自信家で、そもそももうこの時期にこんな付け焼刃的なことをして、絵が上手くなるとでもいうのだろうか? ミケランジェロは画塾に通ったのか? などと考え、これは今すぐ辞めるべきだと決心。それに、もし、画塾に通い無事、美大に合格したとて、それは仲間からあいつは画塾に通ったから美大に受かったと思われないか? 金を払って絵をうまくして美大に入ったなんて仲間には思われたくない。自意識過剰な青年期、誤解されないためにも早々に画塾は辞めるべき! そんなことを考えながら、画塾にて本日最後になるであろうデッサンをしていたとき、画塾の先生が静かに僕の耳元で凄いことを伝授した。
「タナカくん、モチーフの形を正確に取るには、その周りの空間の形をよくみなさい」
「え?!」
タナカカツキ
1966年、大阪府出身。18歳でマンガ家デビュー。以後、映像作家、アーティストとしても活躍。マンガ家として『オッス! トン子ちゃん』、『バカドリル』(天久聖一との共著)など作品多数。1995年に、フルCGアニメ『カエルマン』発売。CM、PV、テレビ番組のオープニングなど、様々な映像制作を手がける。映像作品『ALTOVISION』では「After Effects」や「3ds Max」を駆使して、斬新な映像表現に挑んだ。キリンジのアルバム『BUOYANCY』など、CDのアートディレクションも手掛ける。