前回の続きです。
僕がデビューした頃は、青年マンガ雑誌が相次いで創刊されたりして、作品を発表する場も今と比べればたくさんあったんですね。僕もいろんな雑誌でやるようになりました。
いろんなタイプの編集者がいます。「完全に自由に描け!」という方もいて、信頼していただいていたのか、忙しくて相手してられなかったのか、とにかくフリーテーマ、締切も「描けたら連絡して」という、そんな具合で束縛なし! そういうのはノンストレスですぐに描けちゃいました。とてもありがたかったです。でも、どっちがいいのかわかんなかったんですよね、自由気ままに描いたものは自己満足で終わってる場合もある。自分ではおもしろいと思うんだけど果たして読者には伝わるんだろうか……とか。だからどっちにしろ編集者の反応が気になるんですよね。どのような態度で、誰に向けて創作すればいいのか、自分でいいのか、大衆か、あるいは神への捧げ物か……。
デビューから27年、今振り返れば(10年前にCGに出会ってしまってからはマンガ作品は激減してしまったんだけど)、それでも「あの昔の作品はよかった」とか話題にあげていただいたり、増刷されたり、復刊されたり、評価をいただいたマンガ作品はみなB社で描いていた類の、自由に描いたもの、自分や友人の顔を思い浮かべながら描いたもの。みごとそういうものしか残ってないんですよね。結果は自由に描いたものしか残らなかったんです。
作家にはいろんなタイプがあるんですよね。編集者との関係ですごく伸びる作家もいる。僕の場合はダメだったんですね。編集者の要望を汲み取って描くというのがヘタクソすぎたんでしょう。思えば、そんなマンガの作り方をしたことがなかった。相方と上手く呼吸の合わないピン芸人……。
そんな自分の性格に早く気づいていたら……、とは思いません。 僕は心のどこかで当時の編集者のことを信じてなかったんだなあと思います。僕がデビューしたのは商業誌ですから、本当は、売る人と描く人の関係を創っていくということをしなきゃいけなかったんですね。しないんだったら最初っから商業誌でデビューしなきゃいいんです。売る人と作る人の関係、その中での創作ってのは今まで経験のない新しいこと。だから新人だったら、いちから学ぶ気持ちが必要でした。そしてその技術を身につける。時間をかけて修練する。修練が実を結んでリスクストにきちんと応えるという創作もできるようになる。ひいては世の中のリクエストに応えられる創作! さらには、読者の眠っている感性を叩き起こすクリエイション! 僕はその技術を身につけ損なっちゃいました! わ~~~ん!
今はほとんど商業マンガ誌とのお付き合いがないので、描き下ろしの単行本などは誰に向けて描いてるのかといえば、あの頃と同じ、自分や周りの友人に向けて。それでいいのかわからないけど、そうなっています。
デビューの頃、あの女性担当編集者は、その翌年、事業家と結婚して退社。彼女はもともと百科事典が作りたくて出版社に入社したのにマンガ編集室に配属になり不満があったということでした。そうだったのか~。
退社されてからは連絡をとることもありませんが、今はお幸せで、ゆっくりとした時間をすごしていらっしゃることを祈っております。
タナカカツキ
1966年、大阪府出身。18歳でマンガ家デビュー。以後、映像作家、アーティストとしても活躍。マンガ家として『オッス! トン子ちゃん』、『バカドリル』(天久聖一との共著)など作品多数。1995年に、フルCGアニメ『カエルマン』発売。CM、PV、テレビ番組のオープニングなど、様々な映像制作を手がける。映像作品『ALTOVISION』では「After Effects」や「3ds Max」を駆使して、斬新な映像表現に挑んだ。キリンジのアルバム『BUOYANCY』など、CDのアートディレクションも手掛ける。