2020年には訪日外国人を4,000万人に増やす――。東京オリンピックが開催される年の大目標を前に、2016年6月時点での推計で訪日外国人が上半期だけで1,171万人にのぼり、昨年惜しくも届かなかった2,000万人というマイルストーンを超えることが確実視されている。ただ、政府が「観光先進国」へ向けた取り組みをすすめる中で、実際に受け入れる立場となる企業は一朝一夕で受け入れ体制を整えられるわけではない。
宿泊施設やさまざまな人種・宗教の人々にあわせた”おもてなし”の体制構築が追いついていないと言われているが、日本における最大の問題はやはり「言語」だろう。公共交通機関を中心に英語・中国語・韓国語のマルチ言語の案内板が設置され、ハード面の体制構築はある程度整いつつあるものの、臨機応変に対応できる「人」の存在がまだまだ乏しいように感じる。
当然、訪日外国人は英語圏、中国語圏、韓国語を操る人々だけでなく、フランスやドイツ、イタリア、タイ、フィリピンなど多岐に渡るため、多言語の対応が求められる。しかし、日本人はただでさえ外国語を苦手としている上、英語以外の言語を含めた多言語を操る人材は皆無に等しく、さまざまなサービス業で雇えるだけの人員確保は難しいというのが現実だろう。
そこで2020年、東京オリンピックの開催と政府の受け入れ目標を念頭に電機・通信・IT業界がこぞって「多言語翻訳」への取り組みを進めている。
例えば日本マイクロソフトは、同社のAzure上で展開するAI・機械学習アルゴリズムを活用してリアルタイムの多言語翻訳の実現を目指す。同社は豊橋技術科学大学やブロードバンドタワーと連携し、対訳コーパスデータベースの構築とこれを活用した実サービス運用への応用を目指す。Azureではすでに自然言語処理のAPIを提供しており、対応言語は50にも及ぶ。ただ、日本語の対訳には精度の高いコーパスが必要であり、分野ごとにコーパスデータベースを充実させることで高品質な対訳の提供を図るという。
ほかにも、電機大手のパナソニックも首から下げて利用する小型音声翻訳機を開発しており、こちらもバックエンドにクラウドやAIを活用して高精度な音声翻訳を行う。パナソニックは、最大30言語の翻訳機能を持つアプリ「VoiceTra(ボイストラ)」を提供するNICTや、同アプリに一部技術提供を行ったKDDI、独自の機械翻訳技術を持つNTTらと「総務省委託研究開発・多言語音声翻訳技術推進コンソーシアム」も設立しており、業界の枠組みを超えて「多言語音声翻訳が定着する世界」を目指している。
2012年からのサービスをB2Bに活かすドコモ
こうした将来へ向けた地ならしも重要だが、「論より証拠」とばかりに商用化を進めているのがNTTドコモだ。同社はコンシューマ向けに2012年より「はなして翻訳」というアプリをリリース。対面、電話、メールという時と場を問わず、すべてのコミュニケーションで翻訳環境を実現している。
そしてリリースから4年が経った今年6月にはビジネス向け「はなして翻訳 for Biz」を、7月には「はなして翻訳 for Biz プレミアム」を公開した。コンシューマ向けの提供からビジネス向けのリリースまで4年という歳月をかけた理由について、NTTドコモ スマートライフ推進部 ビジネス基盤戦略室 マーケティング戦略・翻訳担当主査の金野晃氏は「市場環境の変化」を挙げる。
もちろん、翻訳結果の蓄積による翻訳エンジンの改良も理由の一つだが、この4年間で「インバウンド需要の急伸」と「東京オリンピックの開催決定」という2つの大きな環境変化があり、サービス業を中心に法人需要が大きく高まったことがソリューションとしての展開を後押ししたそうだ。
「翻訳アプリの提供を開始した当初も、法人顧客にアプリを見せるとかなり良い反応をいただいていたんです。でも、実際に現場で利用するとなるとリアルタイム性などの『使い物になるのか』をしっかり見極められます。加えて、アプリを利用するための端末や回線とあわせてご提案するので、『そこまでのコストをかけて見合う効果があるのか』となると、こちらとしても難しいところがありました。
ただ、この4年間で翻訳精度が大きく向上し、試作品なども作って、ビジネス展示会などにも出展してお客様の反応を見ていました。機械翻訳だけでなく、オペレーターに繋いで人が介在する、安心できる翻訳という部分も含めて、ビジネス展開の動向を見極めていたのです」(金野氏)
はなして翻訳 for Bizのアプリでは、機械翻訳と定型文、オペレーター通訳を組み合わせて利用できる。機械翻訳では、これまでの1.5億回に及ぶ翻訳データを活かしたコーパス(言語データベース)を元に高い翻訳精度を実現。その上で、業種や業界ごとに特化した対訳コーパスを個別カスタマイズで加えられる。同担当課長の中山 智朗氏は「精度の高い翻訳を実現する上で、業種・業界に特化したコーパスを混ぜるところが差別化のキモだと考えている。ネット上には多くの無料翻訳サービスが存在するが、カスタマイズできないことが多い。このカスタマイズこそが我々の腕の見せ所だと思っている」と、自信を見せる。
日本語と10カ国語の翻訳に対応する |
定型文機能では、免税対応などの頻出フレーズを60文(10カ国語分)用意。ただ、後述する無印良品の現場では「音声翻訳でサクサク応対する方が店頭ではスムーズにやり取りできる」として、あまり利用していないとスタッフが語っていた |
一方のはなして翻訳 for Biz プレミアムでは、API経由で音声翻訳機能を提供する。これを活用した事例としては、東京海上日動火災保険の「TOKIO OMOTENASHI」がある。訪日外国人向け海外旅行保険の付帯サービスとして利用できるもので、外国人がこのアプリをインストールすれば、時と場所を問わず観光地やショッピングなどでシームレスに日本人と会話できるようになる。
金野氏によれば、「音声翻訳機能を自社アプリに組み込む」という作業はそう単純ではないと話す。翻訳エンジンを選定して組み込んでも、音声認識技術や自然言語処理、利用シーンにあわせたコーパス選別など、それぞれを持ち寄ることになれば、技術評価にかなりの時間がかかる。「私たち自身が、これらの技術を組み上げるまでにかなりの時間と労力をかけてきたので、大変さはわかります。これらをワンストップでAPIで提供すれば、お客様のアプリそのものの品質向上に力を注げるお手伝いとなるはずです」(金野氏)。