スタートアップに対する過剰な評価額と過熱したムードが一転、2015年の後半から投資件数が減少し、起業家もアクセルを緩め始めている。6月末に発表されたEvernoteの値上げには多くのユーザーがショックを受けたが、安定して評価を上げていたEvernoteも守備強化に切り替えなければならないのが現状である。しかし、スタートアップに対する投資が冷え込んでも、スタートアップのエコシステムがこのまま衰退するとは限らない。今はまだ市場の調整というか、現実と乖離するほどに過熱した状態からの健全化と見ることができる。
先週、それを示すようなスタートアップの買収案件の成立が2つ発表された。1つは家庭用品大手UnileverによるDollar Shave Club買収で、買収金額は10億ドル。もう1つは小売りチェーン大手WalmartによるJet.com買収で、こちらは株式と合わせた総額は33億ドルになる。どちらも日本での知名度は低く、あまり大きな話題にならなかったが、米国では将来性が高く評価され、注目されていたスタートアップだった。
Dollar Shave Clubは、レザー&ブレードのGilletteモデルが浸透していて新興勢力が食い込めないと言われていたT字カミソリ市場を攻略した。Gilletteモデルは、カミソリの本体である柄の部分を消費者が割安に感じるような価格で提供し、消耗品である替え刃で利益を上げる。誰もが「替え刃が高い」が感じているけど、GilletteとSchickという大手2社のレザー&ブレードが浸透しきっている市場に、新たなレザー&ブレードが入り込めない状態が長年続いていた。そこにDollar Shave Clubは、オンラインのレザー&ブレード・モデルで食い込んだ。独自に開発したレザー&ブレードをオンラインを通じて販売し、利用者が指定した間隔で定期的に替え刃を郵送するサブスクリプション型サービスである。販売はオンラインのみ、マーケティングはYouTubeやソーシャルのみとコストがかかっていないから、GilletteやSchickよりも製品の価格は割安で、しかも利用者は替え刃を買いに行く面倒から解放される。それなら新しいレザー&ブレードを試してみようという人たちが出てきて、口コミだけで利用者の輪が広がり始めた。
Jet.comは、Amazonキラーとして注目されたサービスだ。創業者のMarc Lore氏は過去にベビー用品のEコマースサイトDiapers.comを創業して成功した。オムツは価格に対して箱が大きく、手頃な送料で配達するのが難しい。だから、当時Amazonもオムツを扱っておらず、だから配送の問題をクリアすれば、箱が大きくて買いに行くのが面倒なオムツのオンライン販売は大きなビジネスになると考えた。そして倉庫のレイアウトやボックスのサイズ、在庫比率、配送スピードなどを継続的に改善し、ディスカウントストアに対抗できる価格でオムツのオンライン販売を実現したのだ。それを脅威に感じたAmazonがDiapers.comの運営会社を買収、Lore氏は一時Amazonで配送センターの改革を率いた。
そしてAmazonを離れてLore氏はJet.comを創業。Costco(コストコ)に代表される会員制ディスカウントストアを、オンラインのメリットを活用してWebに構築したようなサービスである。必要なものをショッピングカートに入れた時に、その商品が発送される配送センターにある商品を追加購入するとさらにディスカウントを受けられる。Costcoでは必ずしも欲しいブランドの商品があるとは限らないが、Costcoにある商品をCostcoでまとめ買いすると安い。それと同じように、Jet.comでは何でも安く買えるわけではないが、配送センターの在庫状況に合わせて買い物をすれば、どこよりも安く買える可能性があり、さらにまとめ買いでよりディスカウントされる可能性がある。
これら2つの買収には2つの共通点がある。Gilletteを持つP&GのライバルであるUnileverがDollar Shave Clubを、AmazonのライバルであるWalmartがJet.comを買収した。つまり、どちらも市場を牛耳るライバルの牙城を崩すための武器を得る買収である。そしてもう1つ、どちらも初期段階でForerunner Venturesというベンチャーキャピタルの支援を受けたスタートアップだった。
Forerunner Venturesは、Eコマースを専門分野とする女性が経営するベンチャーキャピタルだ。女性の投資家会社というのは大きな特徴であるが、女性の投資会社である困難も容易に想像できる。ここ数年シリコンバレーが多様性に欠けると指摘され、その問題には女性が活躍しにくい環境も含まれている。しかし、Forerunnerが支援してきたスタートアップのリストを見ると、女性の力を認めないわけにはいかない。Birchbox、Glossier、Zola、Bonobos、Warby Parkerなど、大成功しているスタートアップばかりである。そして今回のDollar Shave ClubとJet.comだ。これらが海のものとも山のものともつかなかった初期の立ち上げをサポートしたのだから見事としか言いようがない。
Forerunnerの投資姿勢は明瞭である。大きな市場をターゲットに、スケーラブルなビジネスモデルで、デジタルネイティブの新たな価値を提案するスタートアップを支援する。この3つを兼ね備えたスタートアップが現れたら、古くからあるブリック・アンド・モルタル型店舗モデルは色あせて見え始める……というわけだ。
世の中の風潮に流されず、ブレない考えを持って有望なスタートアップに集中的に投資する……そんなベンチャーキャピタルが安定した投資成績を上げられることをDollar Shave ClubとJet.comは証明した。投資環境の冷え込みでスタートアップが投資家を説得するのが困難になってはいるが、これを市場の健全化と見たら、本当に何かを変える力のあるスタートアップだけが世に出てこられる状況への”正常化”である。そうしたスタートアップが健全に成長することで、むしろ消費者は結果的に大きな変化を享受できるようになるのではないだろうか。