10年ぐらい前、友達が手伝っていた塾の事務用PCをセットアップした時に、初めてWebブラウザに触った校長先生から「この動きは変じゃないか」と言われた。Webブラウザでページにマウスポインタを合わせた状態で、下にスクロールすると、ページが上方向に巻き上がっていく。PCユーザーにとっては当たり前の動きなんだけど、そのスクロールの方向が不自然だというのだ。「ホイールはぺージじゃなくて、右端にあるスクロールバーを動かしているんです。ただ、細いスクロールバーにマウスポインタを合わせるのは手間だからページ上でもスクロールバーを操作できるようになっているんです」と説明し、「そういうものなんです!」と無理に納得させたものの正直ハッとした。
それでずっと覚えていたのだが、10年が経って、その時の60歳を超えたパソコン初心者の指摘が鋭かったことが証明された。7月20日に発売されたOS X Lionで標準のスクロール方向が逆になった。Webページやウインドウにカーソルを合わせて、Magic TrackpadまたはMagic Mouseで下方向に指をスライドさせると、マウスのスクロールホイールを上に回転させた方向にページが動く。Appleはこのスクロール方向を「ナチュラル」と呼んでいる。
これはiOSと同じスクロール方向である。コンテンツに触れて指を上に動かしたら、指と一緒にコンテンツが上に動く。マウス操作よりもタッチ操作の方がより自然であるという考えから、Appleは新しいスクロール方向をナチュラルと呼んでいるのだろう。同社は単にMacにおけるスクロール方向を逆にしただけではない。OS X Lionに最適化されたOS Xの標準アプリケーションでは、通常の状態ではスクロールバーが表示されない。スクロールし始めるとスクロールバーが現れるものの、細くて半透明なのであまり目立たない。コンテンツ中心のデザインだからiOSデバイスの感覚に近く、より自然に操作できる……はずである。
しかし実際にやってみると、最初はものすごく戸惑う。ホイールマウスが登場してからずっと使い続けてきたスクロール方向が脳に染みついているのか、スクロールバーが表示されていなくても体が勝手に、そこにスクロールバーがくっきりと見えているかのように操作してしまう。タブレットでは疑いなくナチュラルなスクロール方向でも、パソコンでは肩が凝る。
ナチュラルスクロールに対する専門家、ユーザーの反応は真っ二つだ。技術ライターのTom Reestman氏は「Lionのナチュラルスクローリングが直感的ではないと言うのは理解に苦しむ。スクロールバーではなく、コンテンツを見よ」とツイートしている。一方Business Insiderは「なぜMac OS Xの"ナチュラル"スクローリングがひどくアンナチュラルに感じられるのか」という記事で、タッチデバイスに指で直接触れるのはナチュラルでも、垂直に立っているディスプレイを見ながら平面のトラックパッドで操作するのでは直接触れる感覚にはなれない(=アンナチュラル)と指摘している。Ars Technicaの読者アンケートでは、25日時点で「ナチュラル支持」が50%、「過去20年のスクロール方向支持」が46%と拮抗している。
人気テクノロジブログDaring FireballのJohn Gruber氏は「どんなに違和感を覚えたとしても、新しいトラックパッドのスクロール方向を続けていくべきだ。1週間は試してほしい。最初は思っていた以上に混乱すると思うが、そのうち馴染んでくる」と勧めている。
筆者もGruber氏と同じ意見である。3日ぐらい苦労するうちに少しずつナチュラルスクロールに慣れてきた。頭の中のスクロールバーの感覚が薄れてくれば、ナチュラルスクロールの方がコンテンツに集中できて、より自然と思えるようになる。ユーザーをコンテンツに集中させるのは、今日のデジタルデバイス/ネットデバイス、電子書籍リーダー、Webブラウザの大きな課題であり、この思い切った変更は前進だと思う。
ナチュラルスクロールが今後、Mac以外のパソコンプラットフォームにも広がるかは分からない。ただパソコンにおいてタッチインタフェースが主流になるのなら、ナチュラルスクロールはよりユーザーにとって自然なスクロール方向だと思う。Lionの登場でウチにあるWindows PCとMacのスクロール方向が逆になってしまったが、Windows PCはまだホイールマウスなので、それほど違和感がない。むしろ、まだ1台だけ残してあるSnow Leopard搭載Macの方が問題になった。同じトラックパッドで操作するパソコンのスクロール方向が逆というのは、やはり混乱する。そこでSnow Leopardの方にScroll Reverserを入れて、ナチュラルスクロールに統一した。
「ネットワークがコンピュータ」から「データがコンピュータ」へ
ナチュラルスクロールへの変更は何を意味するのだろうか?
Bob Cringely氏がI, Cringelyで「Facebookの下降と終焉」と題して、Facebookの時代は10年と続かないと予言している。おそらく7年程度で2014年頃には終わると見ている。なぜ、そんなに短いのかは原文を読んでいただくとして、ここで紹介したいのはポストFacebookについての記述。
「私が興味を持っているのは、何がFacebookに続くかだ。われわれ全員が個人データを取り戻すことで仲介機能が排除されるに違いないと私は想像している。ひょっとしたらRoger (McNamee)が愛してやまないHTML5がきっかけになるかもしれない。"コンピュータがコンピュータ"の時代から"ネットワークがコンピュータ"を経て、次のトレンドははっきりしている。"データがコンピュータ"だ」
Facebookに自分の人間関係やアクティビティを反映させることで、ニュースや写真、コミュニケーションなど様々なデータを効率的に受け取れる。しかし、それはFacebookという枠の中に限られる。われわれが楽しみたいのはFacebookではなく、その先にあるデータである。少々誤解を招く喩えになるが、YouTubeで配信されている番組コンテンツをタブレットやTVのフルスクリーンで再生すると「番組を見ている」という感覚なのに、パソコンのWebブラウザの標準インタフェースで見ると「YouTubeを楽しんでいる」という感じになる。YouTubeのコメントや「評価する」ボタン、関連動画などはソーシャル機能として同サービスに欠かせないものだが、それらの中で小さくコンテンツが再生されるとコンテンツを楽しむ感覚が薄れてしまう。「コンテンツを見る」と「YouTubeを楽しむ」のどちらがユーザーやコンテンツ提供者にとって重要かは明白だ。
Appleのナチュラルスクロールへのシフトも、この"データがコンピュータ"の流れの1つではないかと思う。「パソコンをやる」「インターネットをやる」というあいまいな言葉を時々耳にするが、パソコンやインターネットで何をやりたいのか突きつめればデータ(コンテンツ)に行きつく。OS X Lionのナチュラルスクロール(脱スクロールバー)やフルスクリーンアプリケーションは、ユーザーとコンテンツの距離を縮め、ユーザーにコンテンツを直接触れさせる試みである。"データがコンピュータ"という流れに共感できるなら、ナチュラルスクロールやフルスクリーンの活用に挑戦することを勧めたい。