TED(Technology, Entertainment, Design)カンファレンスの講演ビデオの一部が日本語字幕で観られるようになった。
TEDカンファレンスをご存じない方も多いと思う。米国で毎年春に開催されるカンファレンスで、1984年の第1回ではAppleがMacintoshを披露した。以来、Bill Gates氏、Bill Clinton元大統領、Al Gore元副大統領、DNAの二重螺旋構造の共同発見者James D. Watson氏、クォーク理論のMurray Gell-Mann氏、Billy Graham牧師、U2のBonoなどの著名人から、GoogleのLarry Page氏とSergey Brin氏やWikipediaのJimmy Wales氏のような新進の起業家まで、数多くの話題の人物がスピーチやデモを行ってきた。そんなTEDがあまり知られていないのは、テクノロジ/ エンターテインメント/ デザイン分野をけん引する人物が集まって濃密な意見交換を行う場であるからだ。カンファレンスは完全招待制で、かつTEDの年間メンバーシップは気軽に支払えるような額ではない。招待される報道関係者も非常に少なく、米国においてもカンファレンスの様子はほとんど報じられていないのだ。
しかしながら、TEDの成果をその場限りにするのはもったいない。優れた才能のTED参加を促すという狙いを含めて、TEDは「TED Talks」という、TEDカンファレンス、TEDGlobal、TED Salonsなど同団体が主催するイベントの様子を編集したビデオを無料公開する試みを2006年に開始した。スピーチやパフォーマンス、技術デモ等々の、実に興味深い記録になっている。例えば、OLPC (One Laptop Per Child)で知られるNicholas Negroponte氏が1984年の第1回に行った講演だ。指を使ったタッチインターフェイス、Webインターフェイス、10フィートユーザーインターフェイス、マルチメディア型のラーニングシステムなど、今日実現にこぎつけた数々のテクノロジを驚くほど正確に予測している。
TED Talksは早い段階で英語字幕をサポートし始めた。それでも英語が不得意なら内容はちんぷんかんぷんだ。一方で、TedToChinaというTED Talksを中国語に要約するファンサイトが現れるなど、無料ビデオ公開をきっかけにTEDカンファレンスに対する非英語圏からの注目が高まっていた。その溝を埋めるためにTEDは「TED Open Translation Project」というTED Talksを複数の言語に翻訳するプロジェクトに乗り出した。注目すべきはその名前が示す通り、翻訳方法に"ソーシャル・トランスレーション"が採用されている点だ。
TEDのオープン・トランスレーションとは
TED Open Translation ProjectではボランティアによってTED Talksの英語字幕が翻訳されている。翻訳者として協力するための条件は2カ国語以上に堪能であること。契約は1本単位からで、翻訳するビデオは翻訳者が選択できる。翻訳作業は単独ではなく、レビュワーとの共同作業になる。作業期間は1カ月だ。
TEDのTranslationsというページに翻訳状況のデータが記載されている。米国時間の5月18日時点で、1,167人の翻訳者が同プロジェクトに参加。42言語で、翻訳数は328となっている。日本語訳されているTED Talksは16本だ。David Merrill氏の「考えるブロック玩具"シフタブル"」のようなデモ中心のプレゼンテーションだと英語のままでも比較的理解しやすい。だがNgozi Okonjo-Iweala氏の「アフリカでのビジネスについて」のようなスライドすらないシンプルな講演を英語のままま深く理解するのは難しい。日本語訳が付くと、英語圏で同氏のスピーチが高く評価されている理由が直接的に伝わってくる。
ボランティア翻訳者が協力する理由は?
ソーシャル・トランスレーション・ネットワーク「Global Voices」の共同設立者であるEthan Zuckerman氏は、翻訳の現状を「Linux用デバイス・ドライバの開発のようなもので、誰もが必要性を認めているけど、魅力に欠ける」と指摘する。なかなか的を射た表現だ。あらゆるコンテンツが主要な言語に相互翻訳され世界中で知識を共有できるのが望ましいと分かっていても、大きなビジネスが絡まない限り翻訳が実現しないのが現状だ。翻訳サービスは気軽に利用できる料金ではなく、機械翻訳は正確にはほど遠い。
このような言語の壁が存在すると、インターネットによって距離が解消されても太いつながりにならず、ネットの世界が英語やスペイン語などのメジャー言語といくつかのマイナー言語に分断化しかねない。それではインターネットのメリットが薄らぐ。マイナー言語の小さなグループの中でも、その文化をベースに素晴らしいアイディアが育まれる可能性があるのだ。ネットコミュニティの"コラボレーション"という特徴を伸ばすには、多言語混合(Polyglot) インターネットの中で世界中の人がWeb情報を共有できる環境が理想だ。そんな環境を目標に、起こり始めたのがソーシャル・トランスレーションである。
ソーシャル・トランスレーションのメリットは低コストと精度だ。正確さに関してはコミュニティによってレビュー・修正されるというのが理由であり、Wikipedia同様に大きな誤りが公開される可能性を併せ持つ。
問題は「どのようにしてボランティア翻訳者の参加を得るか?」だ。 ボランティア翻訳者が協力する最も大きな理由は"興味"だろう。自分が興味を持った情報を、自国語を話す人たちに紹介したくて自分の時間を費やす。つまりソーシャル・トランスレーションにおいては、翻訳者が自分で翻訳するコンテンツを選択できるのが重要なポイントになる。その結果、ソーシャル・トランスレーションでは面白い、楽しめるコンテンツが増えやすい。逆から見れば、楽しみにくいコンテンツが翻訳の対象になりにくいのがデメリットとも言える。第2のメリットはクレジットだ。商業翻訳では翻訳者の名前が表に出てくるケースは少ないが、ソーシャル・トランスレーションでは翻訳者やレビュワーの名前が明記されるのが通常だ。TED Talksでは各ビデオの説明に記載しているのに加えて、ボランティア翻訳者を紹介するページを用意している。複数の言語圏を結ぶ翻訳者・レビュワーの仕事がきちんと記録されるため、ボランティアワークが積み重なっていけば、コンテンツ作成と同様にWebコミュニティへの貢献が認められるだろう。
TED Talks以前からソーシャル・トランスレーションは存在したものの、まだ活用例は少ない。ボランティア翻訳者が参加するメリットを考えると、TED講演のような楽しめるコンテンツ、大きな注目を集められるコンテンツにおいてソーシャル・トランスレーションが採用された意義は大きい。他のコンテンツ配信でもソーシャル・トランスレーションが幅広く採用されるきっかけになればと願う。