「SOAガバナンス」という表現への人々の反応は私も承知している。

SearchWebServiceのマイク・ミーハンはこう述べている。

正直なところ、SOAガバナンスという言い方は不愉快だ。ほかの誰かからああしろこうしろと指図され、プロジェクトの隅々にいたるまで難癖をつけられているような嫌な気分になる。IMAXカメラで結腸内を覗かれるのと同じくらい御免こうむりたい

とはいうものの、私も何度も逡巡しながら、かならずこの表現に戻ってしまう。

Software AG webMethodsでは「解放と統治」という言葉が使われるが、それらは同じコインの裏表をなしている。おそらくは「規制」と言うほうがマシだろう。けれども「統治」を使わないようにするつもりなら、何かもっとはるかに上手い表現を採用したいところだ。規制も、あまり気分を高揚させる言葉ではないのだから。

SOAでは相互依存関係が複雑なシステムを駆動し、そこから創発的なビヘイビア(振る舞い)が促される。ガバナンスという用語では、シンプルな取り決めのルールを適用することで複雑なビヘイビアが創発されるという概念の本質をとらえ損なってしまう。そんなわけで私は、最近ではむしろ「コーディネイション(調和)」という用語を好むようになってきた。これならガチョウの群やハチたちの整然とした行動も示唆できる。

このように、私たちは用語で苦戦を強いられているわけだけれど、肝心なのは、これが複雑なシステムによる創発的なビヘイビアの話だということを理解してもらうことだ。サービスパターン、プロセスパターン、イベント/例外/ユーザパターン(最も広い意味でSOAがもたらす)などから成る、システム全体を考えるのなら、SOAガバナンスが十全に人間的なサイバネティック・システムを意味し、だからこそ動的システムの原理が適用されるということを押さえておかなくてはならない。

『老子』の第59章にははっきりとこう書かれている。

人々に尽くし天に仕える場合、吝嗇(りんしょく)以上に良いことはない。
吝嗇はおのれの考えをどれだけ放棄できるかに依る。
それはまた、過去の徳をどれだけ積んできたかに依る。
徳をよく積めば、もはや何事も不可能ではない。
何事も不可能でなくなれば、限界もなくなる。
限界がないことを知れば、その者は統治者になるに足る。
統治の母なる原理は、長きにわたって有効となろう。
これぞまさに、深く根を張りしっかりと礎を築くこと、すなわち長き生と未来永劫を見据える道である。

同じ詩句を別の訳でも見ておこう。

人民を統治し天に仕える際には、節制に勝ることはない。
節制をもってする場合にのみ、それは早い段階での忍従をもたらす。
早い段階での忍従があれば、徳を積んできたことが強調される。
徳を積めば、もはや乗り越え難いことはないことになる。
乗り越え難いことがなくなれば、その者の限界も知りえなくなる。
限界が知りえなくなれば、その者は支配力を手にできるだろう。
このような権力の母なる原理をもってこそ、その者は永続しうる。
これすなわち、深く根を張り確たる礎を築くということ、長き生と恒久的視座の道である。

後者の訳は「人民の統治」という表現を用いているのに対して、前者では「人々に尽くすことと天に仕えること」とされてはいる。けれども、いずれにしても目指すべきは、深い根を張り、長く存続するための基礎をしつらえることとされている。SOAとSOAガバナンスの核心部分もまさにそうだ。

さまざまな大きさ、タイプ、用途が混在するSOAサービスの世界だからこそ、システムとしてまとめ上げるためにベースの部分が重要になる。ベースをおろそかにした状態では、システムの成功は望めない。2,500年まえに老子が説いた「道」となんら変わるところがない真実である

(翻訳: 嶋崎正樹 / イラスト: ひのみえ)