負け組の象徴とされた80年代前半のIntel
1981年と1982年(入社2年目と3年目)、Intelは創立以来、最大の財務危機に直面していた。無昇給、120%ソリューション(無報酬による就業時間プラス20%の勤務要請)に加え、全社員を対象にした給料一律カットも実施された。
創設以来堅持していた"No Lay Off"方針は遂に幕を閉じ、一時解雇(Lay Off)も敢行された。当時、米国シリコンバレーでは、HPとIntelの2社だけが、従業員を一時を解雇しない企業方針を固持していた。
そのような財務が厳しい状況の中、Intelは私の為に顧問弁護士を雇い、米国永住権(Green Card)を申請し、そして総ての費用を負担してくれ、申請から1年後、米国永住権を手に入れることができた。Intel Valueである"社員を大切に"を身を以て体感した。今でもIntel Valueの善意に対し深く敬意を表している。
1982年12月、IBMがIntel株式の12%を購入した。社内では緊張感が急速に高まり、IBMに企業買収されてしまうといった噂や、Intel社員はカラーワイシャツ禁止の規則に縛られるなどのジョークが飛び駆っていた。
Intelはシリコンバレー半導体メーカ負け組(Under Dog)の象徴としてマスコミの脚光を浴び、社名を名乗る事さえ恥じる雰囲気が充満していた。苦境の中、Intelの競合メーカへの転職者が多数続いた。
そうした状況下において、自らの意思で在職を決意した仲間との絆は必然的に深まって行った。会社の底力を信じ、復活を果たし、業界のトップに返り咲くIntelの姿をイメージし、語り合い、時にはお互いに励まし合いながら業務に打ち込んだ、否、正直打ち込むしかなかった。当時の仲間数人とは、30年後の今でも交友が続いている。
日の丸半導体の大攻勢に新市場の立ち上げで対応
担当したインテルジャパンの営業からEPROM製品に関する特別価格申請が頻繁に寄せられた。当時、日の丸半導体と称された日本半導体メーカ、特に富士通、日立製作所、NECの3社は、日本市場で高品質、低価格を前面に攻勢を強め、EPROM製品で圧倒的なシェアを誇っていたIntelを容赦なく攻め続けた。日本市場では価格競争が激化し、米国市場の同製品価格と比較し30%強安い価格が火花を散らした。
社内会議では"日本であのEPROM製品価格は絶対にありえない"と厳しい追及にあった。数カ月後、日本の半導体メーカは、米国市場に於いてもEPROM製品の低価格攻勢を仕掛け始めた。IntelのEPROM製品マーケットシェアは一気に下降線を辿り、売り上げと利益は大損失を被ってしまった。
マーケティング部署では日本の半導体メーカに対し、怒りが反日感情へと化した。一部のスタッフからは、日本の半導体メーカの行為はダンピング(製造原価よりも安く販売する行為)に値するとの激しいクレームが発せられた。社内対策会議では、時には苛立ちと憤りが頂点に立ち、爆発する事態に陥った。私に罵声を浴びせてくるスタッフもいた。悪戦苦闘の日々は永遠に続くように思えた。
入社して1年半が経過したある日の夕方、マーケティング部長に呼ばれ、突如日本担当から米国Northwest Regionへの担当変更を命じられた。そして翌日から引き継ぎなしの業務が始まった。米国Intel営業は自らがIntel株主であるとのプライドが強く、先ずは会社の利益を最優先し、顧客との価格交渉を進める、但し、追っかけていたビジネスが競合メーカにロストしそうになると、態度を一変し。獲物を追いかける豹のように、牙をむき出し攻撃に転じる。この米国人営業の貪欲で、攻撃的である彼らの姿勢に魅せられた。
新しく就任したMarketing DirectorのBD氏は、斬新な新製品戦略を打ち立て、攻めに転じた。当時「2716(16KビットEPROM))の市場価格は4ドル前後であったが、新製品価格戦略として、EPROM製品の容量が4倍増、価格も合わせて4倍となる新製品「2764」の戦略価格を大々的に公表する決断を下した。当時は新製品で容量が倍になると、価格は3倍強が業界の一般的な常識であった。
「"Steal the Future with 2764"(新製品である2764(16ドル)で将来を盗もう!)」と訴えた画期的なキャンペーンは、北米全土で大いに功を生じた。日本の半導体メーカと同じプレイグランドで競い合うのではなく、Intel最大の強みである、新製品開発の優位性を最大限に生かし、従来のプレイグランドから新天地へ競争の場を移す事によって、自社優位の立場を確立し、マーケット主導権を握る秘策であった。そしてIntel 2764はベストヒット製品となり、再びEPROMマーケットの主役として見事に返り咲いた。
その頃、私は日本の名だたる企業から、駐在員としてシリコンバレーに派遣されていた方々と一緒に日本人会の立ち上げにかかわった。それはやがて大日本印刷、リコー、村田製作所、三菱電機、富士通、沖電気のマネージャが中心メンバーとなって、家族ぐるみの付き合いへと進化を遂げた。家族でRinoへスキー旅行など楽しいイベントを企画し、親睦を深め合うことが会員の喜びとなった。
入社3年目に訪れた最大の失態
私の最大の失態は入社3年目に訪れた。HPの拠点であるボイジー(アイダホ州)へ顧客訪問し、Intel製品説明会を実施する事になっていた当日の朝、私はサンタクララの自宅を予定時間より多少遅れて出発し、車でサンフランシスコ空港に向かった。空港への高速道路、Free Way 101が、想定外の交通渋滞で、不運にも予定した飛行機に乗り遅れてしまった。次の便まで4時間空港で待たされ、そして現地顧客先へと急いだ。待機中に、Intel顧客担当と連絡が取れ、私のプレゼンテーションの順番を最後に入れ替えてもらうことにした。
やっとの思いで辿り着いた顧客先では、無情にも製品説明会はフィナーレを迎えていた。そして残された時間は、顧客との名刺交換だけであった。
数カ月後の査定の際、上司から"年間の評価は5段階中4であり、本来は数%の昇給のはずだったが、飛行機に乗り遅れた失態が、大幅な減点対象となった"と告げられた。最終的に昇給は1.75%になっていた。
過酷とも思える評価に愕然としたが、少し冷静になって考え直し、すべてを自責として捉え、厳しい査定を芯々と受け止る事にした。そしてそれを大きな教訓として、しっかり心に刻んだ。
(次回は6月21日に掲載予定です)
著者紹介
川上誠
サンダーバード国際経営大学院修士課程修了。1979年 Intel本社入社。1988年ザイコ―ジャパン設立以降、23年間ザイログ、ザイリンクス、チャータードセミコンダクター、リアルテックセミコンダクターなどの外資半導体メーカーの日本法人代表取締役社長を歴任。そして2012年ハーバード大学特別研究員に就任