前回は、ゲーム機を含む各電子機器をCPU供給者の目線で大まかに考察した。これから、過去の話で登場した、あるいは現役のゲーム機のCPUを明らかにしながら、私の感想・経験などを書いていきたい。私自身はゲームの類は一切やらないし、ほとんどが10年以上前のことなので朧げな記憶に頼るだけでは記事が成り立たないので、発表の時期や仕様の詳細などについてはWebの情報を参考にしたことを前もってお断りしておく。
スーパーファミコン(任天堂、1990年発表)
それまでゲーム機と言えば遊技場や喫茶店に設置されたアーケード・ゲームに限られていた時期に玩具メーカーの任天堂が家族で使えるコンピュータという、その名の通りの家庭用ゲーム専用機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」を市場投入したのは実に1983年であった。Appleのスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが開発したマッキントッシュ(通称Mac。CPUはMotorolaの16ビット68000)が世に出たのが1984年であるから、任天堂は一般家庭にコンピュータという概念を持ち込むという点では先んじていた。この事実は驚愕に値する。任天堂の「ファミコン」はその当時の子供ばかりでなく大人をもとりこにし、一種の社会現象ともなった。ここで取り上げるスーパーファミコン(スーファミ)はこのファミコンの後継機種として1990年に発表された。
資料によるとCPUは5A22という65C816互換のカスタム16ビットCPUとある。この65C816というCPUは、元をたどると米国のMOS Technologiesが開発した6502であるが、その後継機種をWestern Design Centerという会社が開発して65C816として他社にライセンスした。CPUアーキテクチャには大きく分けて6800(Motorola)、8080(Intel)、とZ80(Zilog)の3つの系譜があるが、65C816はそのうちのMotorola系である。製品を表す数字の真ん中に"C"があることで、CMOSプロセスで設計・製造されたことがわかる。Webのある情報によれば、スーファミに使用された65C816はリコーがWestern Design Centerからライセンスされて5A22として製造したカスタムCPUであるらしい。ちなみに当時のCPUのクロック周波数は1.79MHz、2.68MHz、3.58MHzの三段階切替えが可能であった。
実はこのスーファミについては、私にとって特別な思い出がある。スーファミは筐体の上部にゲームカセットの挿入口がついている。ゲームの複雑さが増すにつれて、その後のゲーム機はより大容量のCD・DVDなどの記憶媒体を搭載するようになったが、スーファミは半導体メモリーにすべてを格納してそれをカセットとして別売りするビジネスモデルを構築した。あまりにも有名な「スーパーマリオ」シリーズもスーファミで大きく発展を遂げた。そのカセットの中のメインメモリーは不揮発性メモリー(ROM)であったが、本体とのインタフェースを高速化するためにバッファ・メモリーのような機能を持たせるために、フラッシュメモリーを間に積むことになっていて、ちょうどNOR型フラッシュメモリーを売り出していたAMDにも話が来たのだ。
NOR型はNAND型よりもアクセススピードで勝るために搭載の検討がされていたわけである。任天堂の設計エンジニアとの話を詰めていくと、任天堂の要求仕様を満たすためにはAMDが持っていた既存のフラッシュ製品に、少し手を加えてほしいという要求が出てきた。ちょっとしたロジック回路を追加するといっても、専用のマスクを設計しなければならず、半導体供給者にとってはカスタム製品である。かなりの量が見込まれると予想されたが、同じ製品を大量に製造してコスト低減を図るのが基本のビジネスモデルであるメモリー製品で、カスタム品というのはかなり厄介なものである。
早速本社に飛び、事業部のVP、営業VPといろいろと手をまわしたが、どうも価格と量のコミットメントで折り合いがつかない。幾度となく任天堂とAMD本社の間を行き来して何とかビジネスにつなげようとしたが結局うまくいかなかった。
しばらくしてスーファミは予定通り発表され総数5000万台を売り上げる商品となったが、残念ながらAMDのフラッシュメモリーは搭載されていなかった。「あのカスタムメモリーは結局どこが供給することになったのだろうか?」と思ったが、その答えは今だにわからず、時々思い出すことがある。それを考えるにつけ、「めでたく供給者として選ばれたメーカーは結局このビジネスで儲かったのだろうか?」などと考えるのは「全く余計なお世話」であるが、前回も書いたようにゲーム機の半導体ビジネスというのはなかなか難しいものである。
NINTENDO64(任天堂、1996年発表)
上述の「スーファミ」の後継機種は、データビット幅64ビットを前面に謳う「NINTENDO64(ロクヨン)」であった。
登場年の1996年といえば、パソコンの分野ではIntelのPentiumが全盛期で、それに対しAMDがK6で対抗するという時代であった。いずれも32ビットCPUで、64ビットのコンピュータはハイエンドのサーバ、ワークステーションに限られていた。
64ビットのCPUといえば1992年にDEC(Digital Equipment)が発表したAlpha、サンマイクロシステムのSPARC、そしてMIPSのR4000などRISCアーキテクチャーのハイエンドCPUが群雄割拠していた時代である。そのような時代に、任天堂が「スーファミ」の次世代機種のCPUとして目をつけていたのがMIPSのR4000であった。任天堂が目指していたのは本格的な3Dゲーミングの体験を家庭用のゲームコンソールで可能とする非常に野心的なものであった。
当時のユーザーが「64ビットコンピューティング」の意味をどれだけ理解していたかは疑問であるが、「ロクヨン」に使用されていたCPUは、当時グラフィック・ワークステーションで勢いのあったシリコングラフィックス(SGI)と共同開発した、カスタム設計のR4300である。
実際にCPUを製造したのは、当時MIPSのライセンスを受けていたNECで製品名はVR4300である。CPUだけではなく、メモリーも高速のRAMBUSインタフェースも採用した。
ちなみにパソコンの世界に64ビットCPUが登場するのはAMDがK8コアのAthlon64を発表する2004年まで待たないとならない。「ロクヨン」がいかに先進的であったがうかがい知れる。
調べてみて驚いたのは、発売当時の本体価格は25,000円で、これが最終的に14,000円まで値下げされたことである。いかにソフトで儲けるのがゲーム機のビジネスモデルであっても、半導体を供給する側にとっては「CPUが何個売れたか」が重要であり、製造したNECにとってどれくらいのビジネスであったかについては関係者にしかわからないことである。結局この高性能ゲーム機「ロクヨン」の生涯出荷台数は約3,300万台にとどまった。
著者プロフィール
吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、2016年に還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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