ISSCC 2019でSKハイニックスがDDR5スペックを発表
半導体のオリンピックとも言われる国際会議「ISSCC 2019」にてSKハイニックスが早々とDDR5チップのスペックを発表したというニュースを海外の報道で知った。
JEDEC(半導体技術協会)はこのハイニックスのISSCCでの発表の少し前にDDR5のスタンダード・スペックについて発表したらしいので、いよいよDDR5が製品化され徐々に普及段階に近づいたということだろう。
私はAMDでの勤務中には主にCPUのビジネスに関わってきたのでメモリについては門外漢であるが、スペックにうたわれている内容を見ると、相変わらず高速の転送を可能とする広帯域・ローパワー・大容量・その他補完フィーチャーというDRAMチップ開発の進化が継続されていることくらいは理解できる。いくら門外漢だとは言っても、DRAMインタフェースとなるとCPUとも密接に関係する話で、AMDがIntelとの技術競争を繰り広げる過程でDRAMインタフェースが大きな問題となった事件があったことを思い出す。特にDRAMとCPUは重要な補完の関係にあるので、そのインタフェースの開発・標準化はビジネスの主導権がかかった多分に政治的動きがつきものである。そこで思い出したのがIntelが執拗にプロモートしたRDRAMの件である。
RDRAMをPC標準にしようと強引に動いたIntel
RDRAMを開発したRAMBUS社はシリコンバレーに1990年の創業とあるから、かなり老舗の半導体技術開発会社である。とはいっても半導体チップの設計は行わず、高速メモリー・インタフェースを開発し、他社にライセンスすることでビジネスをするというIP専門の技術集団と言えよう。
AMDとも交流があり、AMDからRAMBUS社に転職した人も何人か知っている。現在ではその主なアプリケーションはゲーム機などで、ここでは標準となっているが、このインタフェースをIntelが強力にPC市場にプロモートした時期があったことは、今の若い人たちの大多数が知らないと思う。
冒頭のSKハイニックスのDDR5チップのニュースにもある通り、現在ではDDRがPC市場の事実上の標準となっている。しかしRDRAMが業界の新しいトレンドとして登場したころ、この高速インタフェースに目を付けたのがIntelであった。
Intelの本を読むとIntelが技術で半導体を「Dominate(支配する)」という言葉がよく出てくる。要するにCPUを中心にして整然と並ぶ他の部品が並ぶマザーボード上の半導体要素を最終的には全すべ取り込んでしまおうという考え方だ。
半導体技術は回路の集積化そのものであるから、この戦略は当然のことであるともいえる。マザーボード上のCPU以外の半導体要素で一番大きい価値を持つのがDRAMである。CPUを制覇したIntelはこのDRAMを何とかして支配しようとしたのだ。Intelの行動は早かった。RAMBUS社とライセンス契約をすると間もなく筆頭株主となった、また当時、すでに米国最大のDRAMメーカーであったマイクロン・テクノロジー社に多額の投資をし、RDRAMの生産体制を整え始めた。Intelはこの高速メモリー・インタフェースをPentium III向けのチップセットの1つi820チップ、Pentium 4向けのi850チップに搭載した。標準委員会のJEDECではIntelはRDRAMをPC業界での次期標準インタフェースとするべく政治的に動き回った。
Intelの策略
このあたりの話題を思い出していて気づくのは、IntelがRDRAMを強引に標準に持って行こうと画策していた時期はちょうどAMDがK6、Athlonで技術的に優位に立っていた時期と重なることである。
IntelのRDRAMへの傾倒は、当時CPU技術で猛追するAMDを振り切るための戦略だったのではないかと思っている。AMDの創業者サンダースの後を継いだヘクター・ルイツの自叙伝「Slingshot」にこのRDRAMの騒動があった当時にIntelのCEOであったクレイグ・バレットと短い会話をしたことが記されている(以下、英文原典からの引用)。
「IntelはJEDECの標準委員会の中に幾層にもわたる階層的委員会を作り始めた。最高位にある委員会の中心にIntelがいて次期DRAMの標準を息のかかったメンバーだけでまず策定するつもりらしい。標準がある程度決まった段階で下位の委員会まで落とし、そこで正式に決めるということだろう。Samsung、NECを含める一握りのDRAMメーカーが参加している最高位の委員会で決まったことが、事実上委員会全体で承認されるということとなる。AMDはCPUのメーカーとして最高位の委員会への参加を表明していたがなぜかいつも却下された。これまでの標準であるDDRの性能向上の路線でK8を含む次期CPUを開発してきたAMDにとっては大変に深刻な問題になると察知した。そこで私はIntelのCEOであるクレイグ・バレットに直接電話をして聞いた、"クレイグ、どういうことだい? AMDはCPUの開発のために新標準スペックへのアクセスがどうしても必要なのだが?"、するとクレイグは平然とした声で答えた、"ヘクター、君は誤解しているよ。新標準は委員会全体で決まったら正式にすべてのメンバーにリリースされるのだよ。そうしたらAMDのアクセスももちろん可能だよ。"」
最高位の委員会のメンバーとなっていたマイクロンだけでなくSamsungにも当時Intelが多額の投資をしていたことや、NECは当時、日本のPC市場で60%以上のシェアを持っていて、IntelのCPUに大きく依存していたことを考えると、この話はなるほどと思える。
RDRAM計画の失敗
しかしIntelの策略は結局失敗した。その理由には下記の点が考えられる。
- RDRAMは技術的には高速化が可能な構造であったが、製造コストが高かった。
- 実際に製造してみたらエンド製品のシステムレベルではそれほど性能が上がらなかった。
- 出荷したばかりの時期にシステムがハングアップするというチップのバグが見つかり、Intelはi820チップのリコールに追い込まれた。
- JEDEC標準委員会でのIntelの強引な振る舞いにDRAM各社が反発した。
業界の支持が得られなくなるとIntelはいよいよエンドユーザーに優位性を訴える最後の手段にでた。「CPUがIntelならばRDRAMはただ」という強引なPentium 4との抱き合わせ販売を行ったのだ(Pentium 4のリテールパッケージにRDRAMが2枚入っていた。1枚ではなく2枚なのは、1枚よりも性能を高めることができるため)。これにはさすがにエンドユーザーも引いてしまい、Intelの目論見は失敗した。
過去のコラムで取り上げたようにIntelの成功の陰にはi430、i860、Itaniumのようにたくさんの失敗例がある。しかしIntelの凄さは累々と横たわる失敗例にめげずに常に大胆に挑戦し続けることであろう。この業界を揺るがすほどのエネルギーがAMDの頑張りの源となっているのは言うまでもない。
著者プロフィール
吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、2016年に還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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