15年ぶりの旧AMD本社ビル訪問
サンフランシスコからハイウェイ101を南下して30分もすると次々と懐かしいストリート名が現れる。Mountainview、Palo Altoを過ぎるとLawrence Express Wayという看板が出てくる、そこで101を降りてLawrenceに入り、右折すると間もなくStewart St.の十字路に出て、そこを右折すると目の前に白亜のビルが現れる。
ビルの真ん中にはグリーンのAMDのロゴが燦然と輝く。AMDが1997年に建設した新本社ビルである。1986年に私が入社したてのころは、Thompson St.、LaGuine St.などに散らばっていたAMDの事務所は、新築なったこの本社ビルに統合された。
1997年といえばAMDがK6を発表し、Intelに対抗しうる唯一の競合として高性能CPUビジネスを本格化したころだ。そのころのAMDは会社全体がノリノリだった。
それまでAT&Tのビルがあった土地一帯を買い上げて、創業者サンダースがAMD One Place(AMD一番地)と名付けた土地に構える白亜のオフィスビルはいかにもシリコンバレーの名士サンダースらしく、しばらくシリコンバレーに海外から訪れるビジネスマン達のちょっとした観光スポットでもあった。
通りに面した側にはサンダースを中心に幹部連中の個室がずらりと並び、その個室の前には秘書がいて、忙しく電話対応していた。幹部連中のフロアの入り口には毎日豪華な生花が活けられていて、いつも華やいでいた。
私は出張第一日目にはこのフロアを訪れてVP連中に挨拶に行くのがルーチーンだった。まるで高級ホテルのロビーのような幹部フロアーに入って行く時にはいつも緊張していたが、ロビーで私を見つけると、「よう来てたのか、元気か? 時間があったら私のオフィスに寄りなさい。日本の話を聞かせてくれ」、などと気軽に声をかけてくれた。
AMDがF1レースでフェラーリ・チームのスポンサーをしていたころには、ロビーには真っ赤なフェラーリの実物マシンが一台置いてあった。何しろハデハデな時代であった。
その後、2017年に2マイル離れたSanta Claraに本社を移転したが、このSunnyvaleのビルでは今でもグラフィクス関係のAMD社員が働いている。
私が15年ぶりに訪れたその日は週末ということもあって、キャンパスは閉まっていて中に入ることはできなかったが、そのビルの前に立ったに時は、あの頃の記憶が一気に湧いてきて胸が熱くなった。しかしさすがに新設なったApple本社訪問の直後であったので、その佇まいは古めかしく、「昔の名前で出ています」という感じがした。
Intelの本社に潜入
古い街並みを走っているとどうしてもチップの写真が見たくなった。兼ねてより調べがついていたMountainviewにあるコンピューター歴史博物館に行く予定であったが、あいにく当日は休館日であった。
それでは、とAMDから車で10分ほどのIntel博物館に行った。この博物館は数年前に改築なったIntel本社のキャンパス内に設置された一般公開の博物館でIntelの歴史的展示物がおかれている。Intelの新社屋はAppleに比べるといかにもIntelらしい地味でごく普通の事務所ビルである。
私は現役時代にはIntelのビルの前を何度も通ったことがあるが(というのもすぐ近くのMarriottホテルではいつも何らかの会議が開かれていたのでよく行っていた)、まさか引退してIntel本社キャンパスに足を踏み入れることになろうとは夢にも思わなかった。
そう広くはない博物館ではあるが、大変に貴重な記録がいろいろと展示されている。入館するとすぐのところに展示されているのは創業からIntelを主導したロバート(ボブで知られる)・ノイス、ゴードン・ムーア(ムーアの法則であまりにも有名)、とアンディー・グローブ3人の写真である。
これらの3人の天才がごく最近まで世界最大の半導体メーカーであったIntelを作り、成長させた。また現役時代AMDで勤務した私の仕事にあらゆるチャレンジを与えてくれたのもこの3人が主導したIntelである。ことに"マイクロプロセッサーの父"とも呼ばれるボブ・ノイスはその天才的ひらめきと、カリスマ性によって業界で最も尊敬された人物である。
私はある業界団体の会議でボブ・ノイスを見かけたことがある。話す機会はなかったが、そのカリスマ性は離れたところにいても十分に感じられた。
ノイスに率いられたIntelは矢継ぎ早に新技術を使用した半導体製品を売り出し、時代の寵児となったが、日本メーカーのDRAM・EPROMの攻勢にあって倒産寸前に追い込まれた。そこでノイスはメモリビジネスから撤退するという大英断を下し、当時はまったく新しい分野である汎用マイクロプロセッサー事業にすべての経営資源を集中させた。
Intelはその後コンピューターの驚異的な発展とともに、急激にその存在力を拡大し現在の圧倒的な地位を築き上げた。
そのIntel神話の礎となったボブ・ノイスは、その後Intelの経営をアンディー・グローブに譲って、当時急激に力をつけてきた日本の半導体技術に対抗しようとして米政府が中心となってして設立した米国半導体共同研究機関「SEMATCH」の初代所長となって精力的に働いたが、SEMATECHが設置されたテキサス州オースチンで趣味のテニスのプレー中に心臓発作で急死した。62歳という若さであった。
Intel博物館には他にも沢山の貴重な展示品がある。その中でも私が最も興味をひかれたのは世界初のマイクロプロセッサーである4004の拡大写真である。
これは日本の計算機会社ビジコンによって作成依頼されIntelと日本のエンジニアが共同で開発した4ビットのマイクロプロセッサーである。もともと10数個のチップが必要であった初期の設計に改良を加え1チップに集積したこの製品は、Intelが汎用CPU 4004として1971年に販売を開始した。
10μm(ナノメートルではない)のプロセスルールで、2,300個のトランジスタを集積したこのCPUはまさに半導体業界の記念碑的な製品である。この辺のいきさつについてはたくさんの本が書かれている。
今回の話はセンチメンタル・ジャーニーそのものの内容になってしまったが、次回はシリコンバレーの今昔とその変化について書いてみたい。
著者プロフィール
吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、2016年に還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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