Intelとの戦いで敗れ去った傑作x86互換CPUたち(前編)は「コチラ」
AMD-K6誕生の立役者「NexGen」
Intel互換CPUの歴史を書くのであればNexGenにも触れておかなければならないだろう。NexGenはシリコンバレーのミルピタスにあった互換CPUベンチャーである。
私は今まで知らなかったが、Webの情報によれば、もともとはCompaqとアスキーが出資して1986年に創立された会社であるらしい。1986年と言えば私がAMDに入社した年であるから、かなり老舗の会社であったということだ。パソコン企業として一世を風靡したCompaqと日本のアスキーが創立に関わっていたことは大変に興味深い。CompaqはIBM互換のパソコン市場勃興を主導したメーカーとして、この時すでにCPUをIntel一社に依存する状態を回避する道を探っていたということだ。
NexGenはファブレスのデザイン会社で製造はIBMに委託していた。独特の技術によるCISC構造とRISC構造両方のメリットを享受できるようなハイブリッドのアーキテクチャを採用したが、実際のCPUの製品化にはかなりてこずっていたらしい。
私がNexGenを知るようになったのは、AMDの野心的なK5プロジェクトの失敗が社内でも明らかになっていった1990年の中頃であったと記憶している。K5の失敗を悟ったAMDのCEOジェリー・サンダースはPentiumに対抗する互換CPUの次の手を探っていた。社内で一から設計をやり直す時間はなかった。そこで幹部の限られたメンバーと極秘裏にコンタクトしたのがNexGen社であった(連載 巨人Intelに挑め! - K5の挫折、そしてK6登場 第3回 NexGen社買収をご参照)。
NexGenの先進的なデザインはかなりのポテンシャルを持っていたが次のような弱点があった。
- IntelのPentiumと異なるバス構造を持っていたので、Intel製品とのハード互換性がない。
- 故に業界標準となっていたPentium用のマザーボードは使用することができず、独自仕様のマザーボードが必要となる。ということはシステムレベルではかなりのコスト高になる。
- 1チップのソリューションではなく、NexGen最後の製品となったNx586でも浮動小数点演算用のコプロセッサ、他のインタフェース・ロジック回路を集積しても2チップが必要。
これらの弱点は互換CPUとしてはかなり致命的なもので、NexGenは当時盛んと開催されていたCPU技術についてのカンファレンスでは積極的に発表を行うものの、実際のビジネスではほとんど実績を上げることができなかった。
そのような公表された情報しか持ち合わせていなかった私は、正直「AMDが大枚をはたいてNexGenを買収」というニュース・リリースを見た時に、これでAMDもおしまいだと思った。私の周りのエンジニアたちに聞いてみたが、やはり同じで「とうとうAMDの幹部連中はやけくそになり暴走し始めたのだ」、という反応であった。
しかしサンダースを中心とした限られた幹部とNexGenとの間では、買収発表のリリースに書かれていないいろいろな話し合いが同時に進行していた。発表後まもなく、時がたつにつれて下記のような買収戦略の内容が明らかになってきた。
- AMDはNexGenを買収しすべてのIPとエンジニアを引き取り、新たなCPU開発を行う。
- 新たなCPUのコアにはNexGenがやっと開発を終えた最新のNx686を使う。
- Nx686のコアはそのままで、インタフェースをPentiumのバスに互換性をもたせ、Pentiumのマザーボードにさしても使えるようにする。ただしすべて1チップに集積する。
- 開発期間は1年間。
これを要約すると、完成していた高性能のNx686のCPUコアを土台に、それまでのNexGen特有のNxVLバス・インタフェースをIntel互換に1年間で再設計し1チップに集積するということだ。
CPU設計としてはかなりの荒業であったに違いない。設計現場から遠く離れた日本で営業をしていた私には、彼らがどのようにしてこれをやり遂げたのかはまったく分からないが、与えられたわずか1年間という再設計期間でAMD・NexGen両社のエンジニアが一体となり、必死でとりかかったことは容易に想像できる。
果たして、翌年の1997年にAMDは予定通りのスケジュールで新型CPUを発表した。それがAMD-K6であった。K6は発表時からPentiumを凌ぐ233MHzで登場し、CPU業界の話題をさらった。ちょうどDIYの市場も盛り上がってきていたころなので、K6はかなりのコアユーザーにも支持された。
それまでAMDという会社名を知らなかった人がAMDを知るようになったのはこのころだと思う。K6はAMDのCPU開発の歴史の中でも本流の設計ではなく、外部から技術を取り入れた製品としてユニークな存在である。しかしこの時のK6の成功なくしては現在のAMDは考えられない。K6の成功で息を吹き返したAMDは、その後のK7 Athlonで大きく飛躍することになったからだ。
大きなポテンシャルを持っていた互換CPU - NEC V30/40シリーズ
これまでの互換CPUの流れとは毛色が違うが、Intel互換品としてNECのVシリーズもあげておきたい。
私の記憶ではNECはAMDやCyrixのようにパソコン用のCPUとしてIntelにガチで勝負をかけたものとは違うという印象がある。
どちらかというと組み込み用途の目的に開発されたものと思われる。しかし当時は飛ぶ鳥を落とす半導体メーカーであったNECがIntel互換CPUを製造していたことは興味深い事実である。
当時のNECは世界で有数のパソコンメーカーでもあった。NEC独自設計のパソコンPC-98シリーズといえば、当時世界で2番目の規模だった日本のパソコン市場で7割以上もシェアを占めていた時期もあるほどの超売れ筋モデルであり、「パソコンと言えばPC-98」と考えられていた。
NECのPC-98シリーズは独自のOS、アプリケーションを搭載しWindowsとは互換性がなかったが、その一部のモデルにはIntel互換の自社CPUであるVシリーズが使用されていた。WindowsパソコンがCompaqとともに日本に上陸し次第にシェアが拡大していく過程で、NECはPC-98シリーズを独自路線からWindows互換にシフトしていったが、CPUは一貫してIntelかその互換品であった。
タラレバの話であるが、もしNECが本格的にIntel互換CPUメーカーとして市場にVシリーズを拡販していたら、たぶん今の半導体の世界地図自体が違っていただろうなどと想像してしまう。
NECがVシリーズを大々的に拡販しなかった理由の1つにIntelとのマイクロコードに関する著作権訴訟があると考える。Intelは業界標準となる前に複数社とライセンス契約を結んでいたが、x86の市場での優位性がある程度確立されると、これらのライセンス・パートナーとの契約を解消し、契約解消後も互換品を製造するメーカーに対しては特許侵害、著作権侵害などの法的手段に訴えそれをけん制するという手に出た。
NECのVシリーズの場合はNEC製品に使用されていたマイクロコードの著作権侵害という名目で訴訟を起こし、そのビジネスを阻止しようとした。AMDも同じ時期に訴訟を仕掛けられかなり苦労した。この辺の事情については私が過去に書いた記事をご参照願いたい(ご参考:「連載 巨人Intelに挑め! – 最終章:インテルとの法廷闘争、その裏側 第2回 AMD対インテルの法廷闘争の歴史」)。
紆余曲折した挙句、AMDもNECもこの訴訟には勝利したが、AMDとNECにはそのスタンスに大きな違いがあった。AMDはあくまでも徹底抗戦のスタンスであったが、メモリも含め大きな半導体ビジネスを世界的に展開していたNECは「係争中」の製品について積極的に拡販しなかったのだというのが私の印象である。
しかし、当時のNECの技術と事業規模をもってすれば同社は十分にIntelに対抗する勢力となりえたはずで、そのポテンシャルを考えると、「NECはもしかするとIntelに代わる半導体メーカーになっていたかもしれない」、などと想像してしまう。
大学で歴史を勉強している我が身としては、「歴史においてタラレバの話ほど意味のないものはない」と認識したうえでの想像である。
著者プロフィール
吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、2016年に還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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