記憶に残る傑作CPUたちを前編後編の2回に分けて書いたが意外にも好評らしいので、今回はその続編で「Intelとの戦いで敗れ去った傑作x86互換CPUたち」という角度で、追加の話題を書くことにした。

IBMのPC/ATの発表後、PC市場が爆発的に成長すると、それまではメインフレーム・コンピュータ企業の大手既存ブランドに加え、Tandy、Compaq、Dell、Gateway、Packard-Bell、AST、Acer、eMachinesといった今までに聞いたことのないブランドが勃興してきた(これらをIBMクローン、あるいはPC/ATクローンと言った)。ちょうど現在のスマートフォンの市場の発展過程と似ている。

その当時日本のPC市場は世界で第二位の規模を誇っていて、NEC、富士通、東芝、日立、パナソニック(当時は松下電器産業)、ソニー、シャープなどといった大手電機メーカーもパソコンをそのコアビジネスの一部に加えることとなった。これだけパソコンベンダが増えてくると、各社が差別化を図るためにCPUもIntelとAMDだけとはいかなくなり、x86互換プロセッサが乱立するちょっとしたフィーバーになった。結局AMDを除いて4~5年のうちにすべてが姿を消したが、その華やかだったころのx86互換市場をちょっと思い出してみよう。

異色のTransmeta:Crusoe(クルーソー)

デイビッド・ディッツエル氏率いるTransmeta(トランスメタ)はたぶんIntelにとってAMDの次に目障りだった互換CPUメーカーだろう。その証拠に日本での公正取引委員会による独禁法違反についての調査では、IntelがあからさまにAMDのみならずTransmetaの日本でのビジネスを妨害した事実が明らかになった(その辺の詳細については、過去の連載「巨人Intelに挑め! – 最終章:インテルとの法廷闘争、その裏側 第13回 公正取引委員会がインテル・ジャパンを強制調査した"あの日"」をご参照いただきたい)。

その当時、パソコンはモバイルの時代に突入していた。TransmetaはAMDが不得手なモバイル・パソコン用の低消費電力CPUにターゲットを絞った。Intelもモバイル用のCPU開発にはてこずっていた。次世代CPUに常にx86の複雑な命令セットを実装しながら過去の製品との互換性を維持すると、CPUの構造も複雑になりトランジスタ数も増加して、モバイルが要求する低消費電力を実現することが技術的に難しくなってきていたからだ。その間隙を見事に突いて「x86の命令セット自体を実装しない」、というまったく新しいアプローチで参入したのがTransmetaであった。

1995年にデビッド・ディッツェル氏が創業したTransmetaの登場は非常に劇的であった。私のおぼろげな記憶では、製品の発表までは極力企業情報を抑えていたので、多くの人がその存在を知らなかったが、ある日突然聞いたこともないシリコンバレーの会社がまったく新しい技術でx86互換CPU市場に参入したという鮮烈な印象を持っている。

Transmetaは当時知らぬ人はいなかったリナックスの開発者リーナス・トーバルズを技術アドバイザーとして雇用したことを大々的に発表し、Code Morphingという聞きなれない新技術で超低消費電力のモバイルx86互換CPUを提供するという。そして、製品発表から程なくして、日本の名だたるモバイル・パソコンメーカーが揃って採用を表明する段になって、業界関係者だけでなく一般のマスコミも注目するようになった。経済誌、証券関係のテレビなどにディッツエル氏は積極的に登場し、その技術がいかにユニークであるか説明するのだが、私も含めて詳細についてはよく理解できなかった。

そもそも「x86の命令セットを実装しないでx86との互換性を取る」というのはどういうことなのか?

TransmetaのCPUはx86の命令セットを実装していない代わりに、VLIW(Very Long Instruction Word:超長命令語)の命令をCode Morphing(Morphingとは"変態する"の意味)という独自のソフトウェア技術で、ちょうど「さなぎが蝶に"変態"するように」x86命令を生成するというものらしかった。ソフトでx86命令を生成するので、理論上は同じハードウェアで他の命令セットもサポートできるという夢のような技術を標榜していた。複雑なx86命令セットをハードで実装しないので全体のトランジスタ数は少なくなり、半導体のハードとしては低消費電力になるという。

  • Transmeta Crusoe TM5600
  • Transmeta Crusoe TM5600
  • Transmeta Crusoe TM5600 (提供:長本尚志氏)

モバイル・プロダクションパソコンに注力していた富士通、NEC、ソニー、東芝などの名だたるメーカーも早速超薄型のモバイル・パソコンやタブレット製品を発表し、Transmetaの存在感はいよいよ本物となった。デスクトップ・パソコンでのガチ勝負に注力していたAMDの我々はそれほど意識していなかったが、モバイル・パソコン市場という成長分野にまったく新しい技術で風穴をあけられたIntelはかなり脅威に思ったのだと思う。いろいろな妨害行為を行ったということがその後の公取委の調査で明らかになったほどだ。

しかしTransmetaのCrusoeは低消費電力という目標は達成したようだったが、総合性能が前評判ほどではなかった。製品が市場に出回るにしたがって、フィーバーのような市場での注目は急速に静まっていった。TransmetaはCrusoeの後継機種Efficionを発表したが、その頃にはIntel、AMDも低電力CPUへ積極的に取り組み始めたのでその独創性も薄れてきた。結局Transmetaはこの2つのCPUを出荷した後はハードのビジネスから撤退しIP(知的所有権)を売る会社に変貌した。AMDもその技術を取り入れたようだが、その後の製品に採用されたという形跡はない。

テキサスから参戦したCyrix(サイリックス)

Transmeta程でなくとも、やはりIntelを悩ましたのはCyrixである。他のx86互換CPUのほとんどがシリコンバレー出身でIntel、AMD本社からは車でほんの10分くらいの距離にあったのと違い、Cyrixはテキサス州出身のベンチャー企業だった。

ベンチャーといっても1988年創立であるからかなり老舗ではある。母体はTI(Texas Instruments)から飛び出した活きのいいエンジニアたちだった。その頃の米国半導体業界には大きく分けて3つの系譜があった。

Intel、AMDのようにFairchildから派生したシリコンバレーのやんちゃ組に加えて、イリノイ州シカゴに本拠地を置く正統派Motorolaとテキサス州ダラスの巨人TIである。これらの会社からいろいろな会社が生まれては消えていったが、この3つの系譜は結構独特の企業文化を持っていて、「あいつはXX出身だからね」、などという言い方をよくする。AMDもテキサス州にはAustinとSan Antonioに工場を持っていて、私も幾度も出張したことがある。シリコンバレーSunnyvaleのAMD本社の連中からはよく、「お前、日本人でよくテキサスの連中の言葉がわかるな?」、などとよく冗談を言われたことを思い出す。

さて、Cyrixだが、AMDやTransmetaなどがIntelを出し抜くというガチな戦略を中心に据えていたのに対し、彼らはIntelと共存するという戦略をとっていたように感じる。Cyrixのx86互換CPUのラインアップを見ると、Intelが386、486、Pentiumと世代交代をする後についていき「386互換で486の性能」という具合にIntelプラットフォームを継承しながらアップグレード、あるいはアフターマーケットを狙っていた。これはx86の市場が急激に成長するのに合わせて、最新技術の本流市場の周辺にも十分な市場が生まれていたことを示している。Cyrixはファブレスで、主にTIが製造のバックにあったので、知的財産の蓄積ではIntelに引けを取らない。Intelは常にCyrixを特許侵害で訴えたが、CyrixはTIの特許を盾に使い一度も負けなかった。 

  • Pentium互換のCyrix 6x86
  • Pentium互換のCyrix 6x86
  • M1とも呼ばれていたIntel Pentium互換のCyrix 6x86 (提供:長本尚志氏)

Cyrixは最後にCPUダイにグラフィクス機能を集積した統合型CPUであるMediaGXを発表してIntelの技術を超えたが、それまでのIntel後追いの戦略のゆえに利益がうまいように出ず、再投資の資金が枯渇してNS(National Semiconductor)に買収された。NSはMediaGXを組み込み市場に売ろうとしたので、活きのいい中心のCPUエンジニアたちは白けてしまい、結局離散してしまった(その多くがAMDに合流した)。MediaGXのコアはその後AMDが買収しGeodeというブランドでしばらく売られたが、その後継機種が出るまでには発展しなかった。

  • Cyrix最後の製品「MediaGX」
  • Cyrix最後の製品「MediaGX」
  • Cyrix最後の製品である統合型CPU「MediaGX」。"MMX Enhanced"との表記でもわかるようにIntelのPentiumのMMX命令を実装していた (提供:長本尚志氏)

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、2016年に還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。

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