先端プロセスルールの威力

前回、「プロセスルールのみが半導体製品の価値を決めるものではない」と書いたが、半導体メーカーにとって技術の一番の肝はやはり何といってもプロセスルールであることには変わりはない。

AMDがK6の成功の後で、Intelのインフラからの脱却を目指して満を持して1999年(奇しくもこの年はAMD創業30周年)に発表した初代K7 Athlonのプロセスルールは0.25μmであった。この時Intelはすでに次世代の0.18μmの微細加工技術でPentium IIを量産していた。Athlonは発表当初から650MHzという当時としては驚異的な周波数でIntelを圧倒し、その後1GHzの壁を破るくらいまではAMDの周波数が勝っていた。これは浮動小数点演算部分も含めて15段という深いパイプライン構造を持つAMD独自のアーキテクチャがプロセスルールのハンディキャップを克服した結果であったが、初代Athlonのダイサイズは非常に大きかった。下の写真がスロットAというかなり大きなパッケージ(写真上)に封止されたデバイスの中身(写真下)である。

  • SlotAパッケージに封止された初代Athlonの外観

    SlotAパッケージに封止された初代Athlonの外観 (著者所蔵イメージ)

  • SlotAの中身

    SlotAの中身。CPUを中央に512KBのL2キャッシュが2個両側に実装されている (著者所蔵イメージ)

初代Athlonは総合性能の向上のために64KBのL1キャッシュがCPUと同じダイに集積されていたが、さすがに0.25μmのプロセスルールでは512KBのL2キャッシュはCPUと同じダイに集積することはできなかった。CPUの性能向上に必須なキャッシュメモリは大きいに越したことはないが、基本的にSRAMなのでかなりのシリコン面積を充てないといけない。因みにCPUとL1キャッシュ部分を1つのダイに集積した初代Athlon CPUは2200万トランジスタであった。CPUだけでさえ大きなダイサイズであった上に、ボード上に512KBのキャッシュメモリをオフダイで持つSlotAの製造コストはかなり高かったものと思われる。

K7コアはその後も進化を遂げて、次世代AthlonになるとAMDのプロセスルールもやっとIntelに追いつき0.18μmとなった。下の写真は「Thunderbird」と呼ばれた次世代K75コアで製品化されたAthlon XPの写真であるが、総トランジスタ数3700万個に一気に増加したにもかかわらず、プロセスルールが0.25μmから0.18μmに進化することで、コンパクトなダイにすっぽりと収まっていることがよく見て取れる。

  • Athlon XPは3700万個のトランジスタを擁したがすべて1つのダイに収まっている

    Athlon XPは3700万個のトランジスタを擁したがすべて1つのダイに収まっている (著者所蔵イメージ)

Athlon XPモデルナンバー誕生秘話:Compaqからやってきた風変わりなマーケッター

初代Athlonの登場によりクロックスピード競争でAMDに出し抜かれたIntelは次世代CPUのPentium IIIを発表し、AMDとIntelはクロックスピード競争のデッドヒートを繰り広げた。Intelはプロセスルールを0.13μmに進化させていき、1GHzを超すとクロックスピード競争は100MHzごとに上がってゆくというガチの勝負になった。

さすがのK7の優れたアーキテクチャも1GHzを超えたあたりから、Intelの先進のプロセスルールとの差をカバーすることがいよいよ怪しくなってきた。それは、IntelがCPUのクロックスピード向上に特化した新アーキテクチャー「Netburst」を発表するに至って決定的となった。Pentium 4の登場である。Intelは「クロックスピード=性能」という周波数マーケティングをテレビ広告などで徹底的に行った。その広告の「あなたのパソコンにはIntelの高性能CPUが入っていますか?」というIntelの一般消費者へのメッセージは非常に簡単で分かりやすく、Pentium 4の登場でCPUのクロックスピードはパソコンの性能と同義であるというようなことになってしまった。

しかし、賢明な読者の皆様に説明するまでもなく、クロックスピードはCPU/パソコンの性能を決める要素の1つに過ぎない。同じアーキテクチャであればまだしも、異なるアーキテクチャでは、性能の決定要因はバス構造とスピード、メモリアクセス、など他にも有力なファクターがある。Athlon XPはクロックスピードでこそPentium 4に負けるが、他のアーキテクチャ上の優位性でベンチマークなどの実測性能では負けてはいなかった。この事実はIntel自身が認めるところで、いろいろなベンチマーク結果でAMDの妨害を行ったほどだ(過去の連載記事:「2014年に載った奇妙な記事」をご参照)。

そんな時、AMDの有力な顧客であったCompaqから風変わりなマーケッターが入社してきた。パット・ムアヘッドである。「風変わりな」と私が言ったのには訳がある。当時のAMDは御多分に漏れず半導体エンジニアの技術集団であった。その中によりエンドユーザーに近い立場のパソコンメーカーであるCompaqからマーケッターとして入社したパットは、「メガヘルツで考えるからダメなんだ、パソコンのユーザー目線で考えれば簡単だよ」、と言い出した。彼の論理は下記のようにいたってわかりやすいものである。

  1. インテルは巨額の予算でパソコンユーザーに(CPUユーザーではない)クロックスピード・マーケティングをやっている。これには到底対抗できない
  2. AMDのAthlon XPはクロックスピードではPentium 4に劣るが、総合性能では互角である
  3. であれば、AMDはCPUのクロックスピードでの性能表示はやめるべきである
  4. ユーザーはパソコンを買いに来るのであってCPUを買いに来るのではない。しかし何かの性能の指標は必要である。AMDのCPUのパソコンはIntelよりも安い。IntelのCPUと同等の性能だという何かの表示があればユーザーは納得するはずだ
  5. 周波数の代わりに「モデルナンバー」とでも呼ぶ数字をIntel相当品に充てて使用する
  6. あらゆるベンチマークを使用して総合性能での結果はきちんと測定し発表する

そこでパットが提示してきたのが例えばPentium 4の2GHz相当品に当たる1.8GHz動作のAthlon XPを「モデル2000」とする(その際に参考値として実際の周波数とベンチマークの実測結果も公表する)というものだった。

それまでの技術集団AMDのやり方に長年慣れていた我々にとってはいかにも嘘くさいものであったが、論理はしっかりしているし、嘘を言っているわけではない(初めから情報を積極的に公開して支持を得ようというわけである)、それよりAMDにはこの状況を打開する方法は他にはなかった。

かくして「モデルナンバー」戦略は幹部の承認が下り、我々マーケティングは世界中でこのモデルナンバーによるマーケティングを開始した。日本ではPRの責任者でもあった私がプレスを前に発表を行ったが、「これは結局クロックスピードでIntelに追いつかないということですよね?」などという鋭い質問を何回も受け難儀した覚えがあるが、このスキームは次第に当たり前のようになっていき、アーキテクチャがさらに発展した64ビットのK8になってからは、当初Intelには64ビットの対抗品はなくAMDの方法が当たり前になっていった。プロセスルールの話から多少ずれてしまったが、やはり消費者目線のマーケティングは重要である。

幻のAMDのCPUアーキテクチャ

話のついでにAMDがK7の後に開発していた高クロックCPUアーキテクチャについて書いておこう。「パソコンユーザーが求めているのはCPUのクロックスピードではない」と主張しながら、既存製品Athlon XPをモデルナンバー・マーケティング戦略で持ちこたえたAMDではあったが、K7の後継機種のアーキテクチャ開発は粛々と行っていた。

当時のIntelはPentium 4の発表後、プロセスルールの進化で達成するという10GHzまでのロードマップを盛んに宣伝していた。御多分に漏れずAMDの設計チームもやはり同じ方向を向いていた。次世代CPUの設計目標はさらに深いパイプラインを実装し、やはりプロセスルールの級数的な進化により5GHz超の周波数達成に主眼が置かれていたのである(このプロジェクトの社内コード名は当時はK9ともK10とも呼ばれていたように記憶しているが、その後の急展開によって変更されたために報道では諸説あるらしい)。

そんな中、業界を揺るがす事件が起こった。Intelが4GHzのPentium 4の発表目前でその目標が技術的に達成できないと判断し、Netburstアーキテクチャのさらなる改良を断念したのだ。半導体市場に君臨した王者Intelも周波数向上に伴う発熱という物理の基本法則には抗えなかったわけである。それを目の当たりにしたAMDは次期CPUの方向性を、並行開発をしていたx86の64ビット化とマルチコア化に急遽転換した。これが後にAMDのビッグヒットとなるK8の誕生となったわけである。

著者プロフィール

吉川明日論(よしかわあすろん)
1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。

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