しばらく堅い話が続いたので、ここでいきなりくだけた話題でコラムを書いてみることにした。
飲み屋に見るマーケティングの極意
私は還暦を迎えて30年間お世話になった半導体ビジネスから引退後、とある人文学系の大学に学士入学しすでに3年目である。
大学での一日は8:45から始まる1限目から18:55に終わる5限目まで一日中みっちりと講義が組まれている。還暦大学生の私は朝早いのも夕方遅いのも嫌なので、2限目と3限目に講義を集中させている。そうするとその日の大学講義は15:00に終了ということになり、その後は帰宅するまでまずは図書館で暇をつぶし、その後でちょいと一杯というお決まりのパターンである。高齢化が進んでいる日本の都会では、早いところは15時ごろから飲み屋が開いていて、元気な高齢者グループが楽しそうにご歓談に講じている。安い飲み屋街を歩いていると、焼き鳥やから濛々と出てくる煙に誘われてついフラ~と入ってしまう。五感にダイレクトに訴えるなんとパワフルなマーケティング!! 経済学部風に言うと「行動経済学をベースにしたダイレクト・マーケティングの神髄」と言えるのではないだろうか。ということで実地調査もかけて今日も一杯やることにする。
飲み物の部 - ホッピーの熟考されたマーケティング
私は本来ビール党である。しかし最近カロリー摂取などについて医者から注意を喚起されていることもあって現在はホッピーにはまっている。ご存じない方のために簡単に説明すると。
- ホッピーとはホップ味のノンアルコールの炭酸飲料で(要するにノンアルコール・ビールのようなものだと考えればよい)、通常茶色の350ml瓶に入って提供される
- ホッピー自体はアルコールが入っていないので、通常蒸留酒などを割って飲む
- 一番ポピュラーな蒸留酒は甲類の焼酎でこれを「中」と言い、それを割るホッピーを「外」と呼ぶ。この「中」と「外」が対になっていて「ホッピー・セット」と言う
- 通常、客はホッピー・セットが提供されると、氷と焼酎が入った大き目のグラスの中に自分が好きな分量のホッピーを自ら注いで割って飲む
これだけの話であるが、この方式はマーケティング的には非常にうまくできている。あらかじめ分離されたハード=「中」とソフト=「外」を自分で割る=「カスタマイズ」という方法で下記の要領で完ぺきなプラットフォームを絶妙に提供する。
- あらかじめ提供された限定量の焼酎を割るので、飲んでいくうちにグラスの中は次第に薄まってきて、自然とアルコール度は減ってくる。薄まった飲み物を濃くするためには、焼酎である「中」を追加注文する
- 「中」を追加してまた濃くなった飲み物をホッピーで割っていくうちに、今度はホッピー(いわゆる「外」)の瓶は空になるので「外」を追加注文し濃い目になった飲み物を薄める
- すると、また自然と薄くなり「中」を追加注文する。この1から3の過程が延々と繰り返される
- これを繰り返すと次第に酔ってきていい気分になる(何杯飲んだかわからなくなる)
ホッピーのキャッチコピーは「ホッピーでハッピー」といういたって単純だが「飲むと楽しくなる」という顧客のユーザー・エクスペリエンスを実に的確に言い当てている。補完コピーで「低カロリー、低糖質、プリン体ゼロ」をうたっているので、ビールより罪悪感がなく飲み続けられる。Webサイトによると歴史は深く発売後70年であるという。優れた製品とマーケティングがぴったりマッチした例としては完璧である。
つまみの部 - 枝豆の価格決定要因
焼き鳥を注文すると焼けるまでしばらく時間がかかる。実際には大した時間ではないのだが、せっかちな酒飲みにはこれが耐えられなく長い時間である。そこでメニューを見ると「焼き鳥の前の速攻おすすめメニュー」とさりげなく書いてある。多くは枝豆、冷ややっこなど調理しないでいいものであるが、すぐ出てくるので「とりあえず」注文してしまう。
この人間行動は経済学的には「時間選好」と呼ばれている。つまり「将来に消費するよりも現在に消費することを好む行動」である。これは人によって、あるいは対象サービス・商品によって程度が変わるがその「時間選好率」は価格決定の際に考慮される一番大きな要因となる。特に消費者心理が利率を決めるような金融商品では非常に重要なファクターとなる。枝豆などは通常350円などで、低価格ではあるものの、その利益率はかなり高いと思われる。
飲み屋の中には昼間はランチをやっているところもある。ランチの価格はサラリーマンが納得する市場適正価格があらかじめ決められているので、これは夜の部の宣伝を兼ねた「先行マーケティングの初期投資費用をすでに内に含んだ戦略的価格」と考えられるのは皆さんがよくご存じのところである。しかし、店側としては、客がランチを食べる職場に近い地域と、仕事が終わって飲みに行く地域との相関関係をきちんとトラックしないと「持ち出し」に終始してしまうリスクが潜んでいることは言うまでもない。
サービスの部 - 街角の焼き鳥屋に押し寄せるグローバル化の波
最近とみに外国人店員が忙しく働いている飲み屋を見かけるようになった。日本の深刻な人手不足のこのような現状は特に東京ではもう当たり前の光景となってきている。注文を取る日本語がたどたどしいなどで気になる人もいるらしいが、外資系に長年働いた私にはこれらの外国人労働者にはまったく違和感がない。むしろ自国語でない日本語を操りながら一生懸命に仕事をする彼らの熱心さには好感が持てる。たまに注文と違ったものが出てきたとしても笑って受け取るのが私流である。
飲み屋に見るグローバル化と人手不足の深刻な現状を同時に経験する貴重な機会があったのでご紹介する。昨年の12月、いつもの仲間で忘年会をやろうという話になった。まだ就業中の仲間もいるので場所は新橋、時間は18時という幹事からの連絡。忘年会シーズン真っ盛りの時期に新橋で飲み放題、個室2時間限定で3500円という破格の条件であったが、私には得体のしれない悪い予感があった。
皆が到着してさあスタートということになり、セットメニューの前菜とともに明らかに外国人と思われるホールスタッフが現れ注文を取る。とりあえずビールということで全員が生ビールを注文したが、なかなかビールが来ない。個室のドアを開けて先ほどのホールスタッフを探すが、店はかなり広いらしくどこもかしこも客でいっぱい、ホールスタッフが決定的に少ないらしく客しか見当たらない。何回も催促して先ほどのホールスタッフとは違うホールスタッフがやっと持って来たビールは泡がなくなってしまった気の抜けたビールであった。全員が一気に飲んでしまいお代わりを注文しようとするが、ホールスタッフがなかなか来ない。やっと捕まえて一人2杯ずつ注文をしたが、いくら待ってもビールは来ない。そのうち全員がそわそわしだし、「厨房まで行ってとってきたほうが早いんじゃあないか」などと話し出す始末であった。結局2時間飲み放題の間にありついたビールは一人3杯のみであった。
散会となった後で会が始まる前に感じたあの悪い予感はなんであったのか考えてみた。そこでハタと気が付いた。忘年会シーズンの新橋、駅から一分の飲み屋、個室2時間飲み放題で3500円という驚異的なコスパ。何のことはない、需要と供給に甚だしいバランスの崩れがおこった当然の結果であっただけなのだ。
著者プロフィール
吉川明日論(よしかわあすろん)1956年生まれ。いくつかの仕事を経た後、1986年AMD(Advanced Micro Devices)日本支社入社。マーケティング、営業の仕事を経験。AMDでの経験は24年。その後も半導体業界で勤務したが、今年(2016年)還暦を迎え引退。現在はある大学に学士入学、人文科学の勉強にいそしむ。
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