かつて日本海軍の軍港があった都市を回ってみようと思いついたのが、昨年の今頃であった。

2023年は広島の呉を訪れ戦艦大和ミュージアムを見学したが、今年は連休を利用して、横須賀にある三笠公園に設置された戦艦「三笠」を訪ねた。20世紀初頭、隆盛を誇ったロシアのバルチック艦隊との日本海での一戦で連合艦隊を勝利に導いた東郷平八郎大将(当時。後に元帥)が乗り込んだ旗艦である三笠は、退役した後も平和への祈りを込めて横須賀港の三笠公園に設置され、現在では横須賀の重要な観光スポットとなっている。戦艦 三笠は当時のまま保存されていて、乗船も可能である。

横須賀は現在でも米海軍、海上自衛隊の基地がある現役都市で、街のいたるところにそれらしき雰囲気が感じられる。こうした場所を訪れると、現在置かれた複雑な世界状況を再認識する点で大きな意味があるという印象を持った。

  • 三笠公園に設置された東郷元帥の像と戦艦三笠

    三笠公園に設置された東郷元帥の像と戦艦三笠 (著者撮影)

戦艦三笠と日本海海戦

1905年、日本(当時は大日本帝国)とロシア(当時はロシア帝国)の間で勃発した日露戦争での大きな転換期となった日本海海戦については、歴史の教科書などで取り上げられることが多く、当時連合艦隊を指揮した東郷平八郎元帥の名前も知っている方も多いと思う。

日露戦争の要衝だった港湾都市ウラジオストクを抑えるために、遥か北ヨーロッパのバルト海の軍港を出港したロシア艦隊は、アフリカの最南端の喜望峰を回る本隊と、スエズ運河を回る支隊が東シナ海で合流し、日本海を突っ切ってウラジオストクに向かう事になっていた。それを対馬海峡で迎え撃った日本連合艦隊との総力戦となったのが日本海海戦である。両艦隊とも持ちうる主力艦を集中させた大艦隊で、この海戦の指揮に当たった東郷平八郎元帥はこの一戦でバルチック艦隊を撃破し、日露戦争の趨勢を一気に日本有利に持っていく決意だった。

「皇国の興廃、この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」、という東郷が全艦乗員に発した発砲開始の号令はその決意を物語っている。

日本海でのこの大海戦は、結果的に戦闘開始から30分ほどの激しい戦いで日本側の一方的勝利に終わった。この勝利には、東郷の大胆な戦術があった。南方からウラジオストックを目指すバルチック艦隊の進路と交叉して三笠を先頭とする隊列を縦列させて、敵艦の先頭艦と対峙するいわゆる「丁字戦法(T字戦法)」である。この戦法では先頭となる艦船から砲撃が始まるが、東郷が乗船した旗艦 三笠は、射程距離が充分になるまで発砲せず相手をぎりぎりに近づけて発砲を開始するという一極集中の戦法であった。まさに乾坤一擲の大胆で見事な戦術だった。

この海戦での大勝利はロシア相手の和平交渉のきっかけとなり、その5か月後のポーツマス条約で日露戦争は終結した。この海戦で連合艦隊を勝利に導いた東郷平八郎は、後に最高位の元帥となり、「軍神」と呼ばれるようになった。鎖国が解けてから50年ほどしか経たずに欧米からはアジアの小国と見なされていた日本の大国ロシアに対する勝利は、世界を驚かせた。

やはり大国ロシア相手に生き残りをかけ国境を挟む紛争を繰り返していた北欧の小国フィンランドにとって、このアジアの小国日本の勝利は余程好意的にとらえられたようだ。私は、AMDでの勤務の後、フィンランドの小規模な半導体ウェハ企業に5年ほど勤務したが、その間、日本人の私を「トーゴーの国のサムライだ」などと冗談交じりで呼ぶ人がいたのを思い出した。土産物屋に寄ったら、なんと「東郷ビール」が置いてあった。このようなビールがあるのは知っていたものの、実物を見るのは初めてで思わず衝動買いしてしまった。

  • “東郷ビール”は最初はフィンランドで発売されたが、今では英国で売られている

    “東郷ビール”は最初はフィンランドで発売されたが、今では英国で売られている (著者撮影)

このビールは最初はフィンランドの醸造所が作っていたが、その権利は現在では英国の会社が所有していて、日本では輸入ビールとして入手可能である。私好みのピルスナーで、いかにも正統派の味がする。

日本海海戦に参加した山本五十六の戦略と戦術

日本海海戦の大勝利をきっかけに大国ロシアを相手に勝利した日本は、その後軍事力を急激に増強させ列強に伍する国となったが、不安定な世界状況の中で、破滅的な先の大戦へと突き進んでいった。

その大戦時に連合艦隊司令長官となった山本五十六は、若き頃、日本海海戦で装甲巡洋艦「日進」に乗船していて、ロシア艦隊の砲弾の炸裂により負傷し、左手の二本の指を失った。艦船同士のでの対戦では10インチを超える大砲による撃ち合いになるのが通常で、10センチ以上もある装甲板を突き破る砲弾の炸裂には想像以上のものがある。戦艦 三笠の前には実際の砲弾と、その炸裂によってめくれ上がった装甲板の破片の実物が展示されている。見るだけでその衝撃のすごさが伝わってくる。山本五十六は先の大戦時には東郷元帥と同じように連合艦隊を率いる地位についたが、日本が大国アメリカを相手に開戦することには最初から反対だった。山本には海外留学の経験もあり、海軍力を大国間で話し合うワシントン軍縮会議にも日本を代表して出席した。アメリカを代表とする欧米の軍事力については充分な知識を持っていて、アメリカを相手に戦争を仕掛けることの無謀さを充分に理解していた。

しかし、開戦やむなしということになれば、初戦で勝利をおさめできるだけ早く講和条約に持っていくというのが山本の戦略であった。山本は空母6隻を中心とする大艦隊を北海道のはずれ択捉島、ヒトカップ湾に終結させ、その後太平洋を横断して真珠湾を急襲するという大胆な戦術で初戦に勝利したが、その後戦争が長期化するにつれて圧倒的な戦力を有するアメリカに対し戦線はみるみる後退していった。そうした中、山本は南方の前線基地を兵の激励のために精力的に回ったが、ソロモン諸島で飛行中、米機の攻撃にあい戦死した。その2年後、日本は無条件降伏し戦争は終結した。

横須賀に戦艦 三笠を訪ねた経験はいつまでも私の記憶に残るものとなった。